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短編小説『病理に触れる』

精神病棟のベッドで、患者が看護師に暴言を吐かれ、殴られる場面を、テレビは映し出した。

患者と看護師、一体どっちが心を病んでいる?
そんな言葉が、頭に浮かんだ。

心が最も病んでいる人というのは、他人の痛みや苦しみに、無関心にならざる得なくなっている状態の人だ。

それが私の「こころとはなんだ」という自問自答のなかの、ひとつの答えだ。

どうして人は心を病んでしまうのだろう。
そう考えて出てくる答えは、だいたいこうだ。

誰にも関心も持たれず、辛い状態に気が付かれずに放って置かれる。
誰かに軽んじられ、それどころか積極的に心身を傷つけられる。

そういう状態が、常にあるのが普通、と、感じている人がいたら、たぶんすでに、被害者か、加害者か、その両方かだ。

心を病んだ人に対しては、それを「通常の生活」に戻してあげるための、たくさんの試みがなされている。
精神医療とは、大方、そのようなものだろう。
それは心を病んだ人自身が、元に戻りたいからでもあるけれど。

なぜ、心を病ませた人たちに対する研究や治療は、なされないのだろう。

心を病ませる原因が、当たり前に、無責任に、ほうっておかれたまま、ひどく傷ついた心が癒えるも、元に戻るも、ないのに。

あなたは弱いから、傷つけられて病んでしまった。
だから治して、元に戻してあげないといけない。

社会がそう、言っているように聞こえてしまう。

だいたい、心が病む原因は、弱いからじゃないんだ。
加害者になれない、なりたくない、そういう人ほど孤立しやすい。

みんながあざ笑っているものを、一緒にあざ笑うことが、心が正常な証だろうか。あざ笑われて、心が傷ついて身動きがとれなくなるのは、弱さだろうか。

人を傷つけて平気でいられる加害者が正常で、それによって追い詰められ心が壊れた被害者が病とされる。

それを是とする在り方そのものが、この世界の深刻な病理なんじゃないか。

加害者とは、犯罪者のことじゃない。
事件にもならない、矮小な加害。
それらを容認し、正常であるとしてほうっておく人々。

怪我や障害で上手に歩けない人を、美人じゃないと思い込んで苦しんでいる女性を、人と考え方が違うから場の空気から浮いてしまう人を、笑う、嫌味を言う、積極的に傷つける。

彼らは、毎日起きて、働いて、またそれを繰り返せる。
なにせ、ストレスのはけ口は、いくつもあるから。

心を壊された人が、そういう人ばかりの場所に、さあ、戻っておいでと言われて、戻れるもんか。戻りたいもんか。

加害者にとっての正常は、心の世界から見たら、異常。

人を傷つけて、たのしい。
人が苦しむのを見ると、すっきりする。

どうしたら、その病は治るのだろうか。

自らが他人に対し、心の病を生み出し続けていて、仕事ができるとか、人を選んで意地悪できるコミュニケーション力があるとかで、社会では立派だとされている人たちが、どれほどいることだろう。
そういう人たちの言動こそが、心の病の最もたる原因であるのに。

駅で誰かが倒れていても、何も感じずに、見向きもせずに、みなが急ぎ足で仕事に向かう日常の光景。どうして「普通」の人たちは、こんなにも、他者の苦しみに無関心なのだろう。
手を差し伸べる勇気があるのは、周囲から浮いてでも、苦しんでいる人をほうっておけない強さを持つ人だけ。

私にとって、心が正常な状態とは、困っている人を放って置けなくて、手を差し伸べる余裕があることだ。

心ってなんだ。
病ってなんだ。

私は、改めて考えずにはいられない。

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