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パパゲーノ

書いては消し、アップしては下書き保存を繰り返してきたこの記事。
もうアカウントを消そうか、どうしようかと迷っていたけれど、
様々なブログを読むうちに、また書きたい欲がムクムクしてきた。

ちょっといつまで続くかわからないけれど、
「生きる」をテーマに、日記の代わりに日々を綴っていこうと思う。

私は、1980年生まれ。
西暦から20年引くと年齢が出るれっきとした大人であり、おばさんだ。
結婚し子供もいる。
時折、書く仕事や隠し事(ん?)をしながら、のらりくらりと日々過ごしている。
見た目は、どこにでもいるおばさん。
ちょっと太っているのを差し引けば、
顔はまだまだ老けておらず、まだ若さのある方かと思う。
(文章とは要素を無限にするものである)

そう、このように、活字の上ではいくらでも堂々とできる。
己の図々しさを露呈できる。

だからこそ、書こうと思った。
知って欲しいと思った。

この日記は壮大なフィクションだと思って欲しい。
正直に綴りながら、大きなホラを吹く。
まじめに語るつもりだけれど、重くしたくはない。


私には、消えない希死念慮がある。
つまり、しょっちゅう死にたくなる。


とても細やかに表現するならば、
「死にたい」というより
「生きていたいけれど、その方法がわからない」という方が近い。

どうにも生きる方法がわからず、進むことを諦めたことも若い時分にはあった。
年を重ねた分、そこに行き着くまでのことは無くなったけれど
あのころと同じ顔をしたカジュアルな死神が、私の手を引こうと日々やってくる。

死神は、世間話して去ることもあれば、
ひどくまじめな顔で手を掴むこともあり
日々対応に苦慮している。

「生きたくても生きられない人もいるんだよ」
と、手垢がつくほどに使い古されたワードは、ひどく心を打つが、

生きたくても生きられない人がいる人がいること、と同様に

生きられるのに死にたくなる人も、
やはり同じ運命を背負っているのではないだろうか。

と、40年生きてきて思うのだ。

ことが起こり、一気に死に向かい始める気持ちと、生きようとする身体のアンバランス。
その苦しさは、それを抱える人間でなければわからない。

私の配偶者などは、世間一般よりそこそこしんどい体験を何度も繰り返してきているが、一度も死にたい、と思ったことはないという。

死にたい

と、思うのは、実は人生におかれた不幸の大小ではなく、どこか宿命のような気がしてならない。

だからこそ、この日記は、「死にたいという気持ちを抱えながら、生きている私」のなんでもない日常を綴ろうと思う。

お前なんか、幸せじゃないか。
そう思ってくれたらいい。

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