何もない自分

特技。無し。趣味。無し。特別運動ができる訳でも、勉強ができる訳でもない。最近、好きな事は何?という質問の答えを考えてみた。映画。時々見るし好きだけど、好きかと聞かれたらなんとも言えない。音楽。音楽はいい。集中するにもリラックスするにも心地がいい。でも、毎日自発的に聞く訳ではない。好きかと聞かれたらなんとも言えない。スポーツ。身体を動かすことは物凄く気持ちがいいし、爽快感がある。ランニングにはよく行く。自分を律する意味もあるし、健康のためでもある。多分、自分を律する必要がなくなって、運動をしなくても健康でいられるならしなくなるだろう。好きかと聞かれたらなんとも言えない。好きだったものはたくさんある。ゲーム、小説、ドラマ、アニメ、サッカー、水泳、お洒落な空間、歴史を感じる空間、綺麗な景色、綺麗な絵。その他。今でも好きではある。けれど、好きかと聞かれたらなんとも言えない。僕は犬が羨ましい。目の前にテニスボールが転がってきたら尻尾を大きく振って舌を出して息を荒くして無我夢中で追いかけるだろう。犬にはテニスボールがある。僕には何があるのだろう。中学以来テニスボールを見つけた瞬間があった。高三の12月。初めて1ヶ月間無我夢中で勉強した。ほとんどの時間を勉強に費やした。結局、大晦日に友人らと焼肉に行ってから突然、テニスボールを見失ってしまった。その後も見失わずに済んでいたらと何度も思ったが、一瞬でも見つけただけマシだと考えるようにした。できない自分を認めてあげる。ある建築家の記事をみた。とても尊敬している人だ。だから、何もない空っぽな自分を認めてあげようとした。事実は認めている。何か欠点を認めるならわかる気がする。欠点のない人なんてこの世界に一人もいないから。でも、何もない人なんていない様に感じる。自分以外に。だから、空っぽな自分を認めてもその先に何か意味あることは何もないと思う。どうしてこんなにも自分のテニスボールを見つけることが難しいのだろうか。多分だけど、そのテニスボールはどこか遠い場所にあるのではなくて、自分の中にあるのではないだろうか。最近、以前と比べて想像力が無くなったと思った。以前好きだった作品を見ても以前のようには感じられない。自分の外にあるものと、自分の中にあるものの組み合わせがハマったとき、テニスボールを発見できると考えた。外のものは鍵。中のものは鍵穴。その鍵穴にあう鍵は、鍵穴に刺したときに初めて正しい鍵なのかがわかる。それに、鍵穴は変わり続ける。いきなり変わるかもしれないし、ゆっくりと変わるかもしれない。自分も気がつかないくらいに。だから、ある日突然、鍵が合わなくなった。持ってる鍵全部挿してもどれも違う。その鍵穴に合う鍵がなんなのか分からなくなった。鍵は大量にある。どうすればいい。無作為に選ぶか?それでもいいけど、効率が悪すぎる。だからと言ってこれという方法が見つからない。だから、気になったものから選んでいくしかない。無作為に選ぶよりはいくらか気が楽だろう。それと、その鍵穴はサビるのかは分からないが鍵が挿しづらくなったりするらしい。だから、鍵を挿すときは少し格闘しなければいけない時がある。もっと品質の良い鍵穴だったらこんな面倒くさいことはなかったのに。でも、格闘しすぎても時間の無駄だからいい塩梅で諦めるべきである。虚無の自分を解放するにはこの鍵穴に合う鍵をなんとしても探さねばならない。限られた時間の中で。だから、気になった鍵があったらとにかく手にとって挿してみる。何本鍵を選ぶことになるかは分からない。けれど、それを続けていればいつか必ず鍵穴に会う鍵が見つかるはずだ。そしてその時、自分は犬になれる。


初投稿。悩んでた問いに対して思考しながらただただ文字に起こしました。雑文ですが、少しでもお役に立てれば幸いです。

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