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ぼくのなつやすみ


十何年ぶりに祖父母の家で過ごしている。

古い家特有の匂いが、私を子どもの頃に回帰させる。

朝方と夕方に律儀に鳴くひぐらしの声が、仕事に追われて、自分の人生に追われて、息苦しくなって酸欠になっていたあの日々を遠く感じさせる。

なんにもしたくなくなって、いや、なんにもできなくなって、ただそこにいることしかできなくなったわたしは、人生の「なつやすみ」を取ることを選択した。

これは、きっと人生最後の「なつやすみ」だ。



この記事は、元々療養休暇中の7月〜8月にかけて書こうと思っていたものです。

8月下旬、仕事に復帰してから怒涛の毎日に揉みくちゃにされ、記事のストックに残されたままになっていました。

個人的にこの1ヶ月半の体験が、今後を左右する様々なことに向き合うきっかけになったので、記事に残しておこうと思った次第です。

さて、みなさん、「なつやすみ」ってどんなイメージがあります?
これは人によって違うんだろうなーとは思うけど、私にとっては、楽しいけどどこか懐かしくて、切なくて、人生にとってかけがえのない時間という印象があります。

大事なことを思い出すための時間。
大切なことを思い出させてくれる時間。

そんな魔法のような力が「なつやすみ」にはあると思います。

この「なつやすみ」中色んなことを考えたので、備忘録的に書き残しておこうと思います。


令和6年7月初旬。
朝目が覚めて、気がついたら身体が動かせず、何も出来ない私がいた。

仕事に行こうにも、身体が動かない。
本当に文字通り動かなくて、床に身体がくっついたまま立ち上がれず、しばらくそのままでいるしかなかった。

仕事に行こうとすると身体が拒絶反応を起こす。仕方なく上司に休暇の申し入れを電話でするも、話している途中で涙がぽろぽろと出てくる始末。これはまずいな、と直感的に悟った。

4月頃から不調はずっと続いていたけれど、見ないふりして自分を騙し騙しここまでやってきた。

1年目に休職した経験があるから、またあんな状態になるのだけはごめんだ、心の片隅でずっとそう思っていたけど、再び迫り来る影に気付かないふりをしてここまで来てしまった。

もう、休むしかないな。

私ができることは、私に休んでいいよのゴーサインを出すことしかなかった。

2度目の適応障害


以前通っていた心療内科で再び診てもらったら、やはり適応障害だという。

1年目も適応障害だったが、復帰後に思っていたのは、そもそも私はずっと「適応できていない」んだよな、ということだった。

体調が回復し、復帰してもどこか所在がない感じ。6年目の今に至るまで、ずっと無理をしてこの環境に馴染もうとしていた。

そもそも、無理をして馴染む必要があるのか?という話だが、生活のため仕方ないと半ば諦めモードで適応させようとしていた。

でも、結局また「適応障害」。
正直ずっと適応障害なんだと思う。

2度目だったから、自分を守るために自ら「休む」という選択をとった。


「1ヶ月半休ませてください」


上司にそう打診し、了承を得、突然私の「なつやすみ」は始まった。


ぜいたくをする

そんなこんなで突然はじまった「なつやすみ」。
人間は唐突に長期間の休みができると安心すると同時に戸惑うらしい。

まずしたことは、というか、身体が言うことをきかなかったので、沢山寝た。

これがまあ面白いほどに眠れる。

正直、起きていてもなんの気力も湧かない。
元々好奇心の塊で、やりたいことが沢山ある私だが、気がつけばそんな私はすっかりなりを潜めていた。

言うなれば「目にハイライトがない」状態である。当時の私は間違いなく目が死んでいた。

目の前にあるのは「無」の感情である。

とりあえず沢山寝たあとは、それでも時間が余っているので、積み残していたことをやろうと決める。

まずは、観るのが途中で止まっていた「機動戦士ガンダム 水星の魔女」をAmazonプライムで一気見した。

どうやら休暇前、最後に視聴していたのは有名な6話だったようだ。
私の推しはエラン・ケレスなのだけども、まあ色んな意味で衝撃で、そこから止まっていたようだ。

アニメの一気見なんて、大学生の時以来だなあなんて思いながら観ていたら、あっという間に最終話まで観きってしまった。

まだ、全然時間があるな。

カレンダーを見てそう思う。
こんなに贅沢なことをしたはずなのに、まだ潤沢に時間があることに驚く。

仕事をしていると全く時間がないのに、この差はなんなんだろうと不思議な感覚に陥った。

では、まだまだ時間はあるならばと、恋人に付き合ってもらい、オンラインでSwitchの謎解き協力ゲームをしたり、電話でダラダラ喋ったりと学生みたいなこともしてみたけれど、まだまだ時間はある。

あれ、こんなに時間てあるものなんだっけ。

すでに自分の中の「普通」の感覚が崩れ始めていた。


祖父母の家へ

ひとり暮らしのため、休暇となると必然的に何もしないでひとりでいる時間が増える。

元々思考が多めで、ひとりでいると煮詰まりやすい私は、このまま家にひとりでいるのは良くないと判断し、祖父母の家に行くことに決めた。

ちょうど祖母が病気をして退院したばかりだったので、私がサポートするという名目で居候が決定した。

祖父母の家は、私が生まれた時から何度も行っているので、もはや第2の実家みたいなところはあるんだけど、それでも夏休み感があってワクワクした。

実家や自分の家からは車で20分くらいの場所にあるのに気温が結構違う。

特に朝晩は気温差が大きく、自宅よりも圧倒的に過ごしやすい。朝早く祖母が窓をあけるので、ひぐらしの鳴き声がよく聴こえる。

ひぐらしは律儀に朝と夕方に鳴いている。毎日毎日来る日も来る日も変わらず鳴いていた。物悲しくも、情緒あるその音は、ささくれだっていた私の心を幾分か癒してくれた。

あんなに、なんで頑張っていたんだろう。私、本当はどうしたかったんだろう。

ふと、ひぐらしの声に紛れて、仕事に追われて自分を見失っていたことを思い出した。

なんでもないをする

祖父母の家に来てからというものの、することが本当にない。

本を読んだり、資格の勉強をしたり、テレビを見ながらゴロゴロしたり、祖父母と買い物に行ったり、祖母と一緒に料理をしたり、夕方祖母のリハビリに付き合ってお散歩したり…

祖父や祖母は現役を引退してもう長いから、働いているわけでもなく、年金暮らしである。
だからこそ毎日が同じリズムでくるくると回っていく。

私もそのサイクルに乗っかってみたわけなのだが、驚くことにこんなにのんびりしても時間は沢山余っていた。

でも、なぜか心は少しずつ元気を取り戻していった。毎日少しずつ違うことをしたり、工夫をしたり、明日はこれをやろうとか、そういうのを考えられる余裕が出てきた。

「なんでもない」をする、「ちゃんと生活する」って大事なんだなあ…とふと思った。

休む前の私は、なんでもないもしていなかったし、生活も破綻していた。

本当はそれらができないと仕事なんて回らないはずなのに、わたしたち日本人は根っから働きアリの精神を植え付けられている。

「休めない時に」といって身体に鞭打って出勤するための薬とか栄養剤のCMが流れていると思うけど、普通に考えて「休めよ」と私は思うし、そんな状態で到底ベストパフォーマンスが発揮できるとは思えない。

働くことってそんなに偉いのだろうか?

祖父も祖母もただ今を生きている、そこで暮らしている、の状態をずっと貫いていた。
なにかに追われるでもなく、人間の本来あるべき姿でいた。

本当はそれが理想系なんだろうな、と頭の片隅でぼんやりと考えていた。

なつやすみの終わり

祖父母の家で過ごすほか、高校同窓会の集まりや恋人とプチ旅行に行ったりし、かなり充実した1ヶ月半を過ごせた。

絵日記にしたら結構楽しい夏休みだったと思う。大人になってから初めての夏休みは、まるで子供の頃に戻ったかのようにきらきらしていた。

1ヶ月半で心を少し取り戻した私は、予定どおり復帰することとなった。

復帰前の私の心は、さながら夏休み明けの学校に行くような気分だ。

でも、休んでよかった。
夏休みを経験できてよかった。

大事なことを思い出せたから、この先ちゃんとそれを忘れずに、しっかり舵を切って生きていきたいと思った。

人生、辛くなったり、壁にぶち当たったりしたら、1度は夏休みを取得することをおすすめする。
たぶん、きっとなんとかなる。

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