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みんな有能でみんな無能って話

以前勤めていた職場に、「万能」と言われている人がいた。

仕事は常にスピーディーかつ正確で、細かいところにもよく気付く。
いつも堂々としていて、上司からの信頼も厚い。

「彼にできないことなんてないのではないか」

ということで、「万能」といわれていたのだった。

でも僕は、彼のことを「万能」と思ったことは一度もなかった。
「有能な部分もある」とは思っていたが、同時に「超無能な部分もある」とも感じていたのだ。

なぜなら、彼は
人への教え方や指示の出し方が、極めて雑だった
からである。

指示の内容が分かりにくかったり、一度に多くのことをまとめて伝えたり、視線すら合わせずに名詞のみで指示したりと、とても相手のことを思いやっているような対応ではなかったのだ。

おまけに高圧的な態度で、とげのある物の言い方をするもんだから、メンタルを病んで休職してしまった人もいた。

当然、彼が所属する課にはいつもピリピリとした空気が漂っており、雰囲気は良くなかった。

そこで働く人たちの顔にはいつも、
ちびまる子ちゃんが落ち込んだりドン引きしたりしたときに現れる縦線
みたいなものができていたのである。
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一般的に、「有能」「無能」という表現は、「自分で仕事を進める能力」のみに使われがちだが、それはレーダーチャートで表すとしたらほんの一項目なのだ。

仕事において求められる能力というのは、その他にも「人材育成」「説明力」「マネジメント力」「職場の雰囲気づくり」等々、それはもうたくさんの項目があるはずなのである。

そして、そのすべての能力を兼ね備えた人のことを、「万能」と呼ぶのである。

つまり、前述の彼は決して「万能」ではない。

「自分で仕事を進める」という点においては“有能”であったが、「人材育成」や「職場の雰囲気づくり」という点では、“超無能”だったのである。

「自分で仕事を進める」という能力に長けているというのは、もちろん素晴らしいことなのであるが、そればっかりに注目してしまうと、弊害も出てくる。

たとえば、「将来会社を担っていく人材」として期待されていた人が、管理職になってからは全くマネジメントができずに部下が潰れていく、という事例をよく見る。

これはこの人が、「自分で仕事を進める能力」のパラメータが高かったために昇進したのだが、管理職として最も大切な「マネジメント能力」については、めちゃくちゃ低かったからだ。

「有能」「無能」の評価なんて、その人をどの角度から見るのかによって変わる。

そしてその評価基準も、所属するコミュニティや立場や時代が変わるだけで、まったく違ってくるのである。

そして、一番重要なのは、
「仕事」も、『人生』という大きなレーダーチャートの中の、ほんの一項目でしかない
ということだ。

「家庭」とか「趣味」とか「メンタル」とか「健康」とか、数多くの項目のうちの一つに、「仕事」があるというだけなのである。

たとえ「仕事部門」のパラメータが総合的に高かったとしても、家庭を一切顧みず、家族全員から疎まれているような人は、「家庭部門」では無能だ。

「休んでもやることがない」などと言って、急ぎの仕事があるわけでもないのに自主的に休日出勤しちゃうような人は、「趣味部門」では無能だ。

毎日イライラしていたり、過度な心配ばかりしたりするような、精神的な安定を維持できない人は「メンタル部門」で無能だし、

暴飲暴食を繰り返して、健康診断で再検査になっても面倒くさがって病院に行かないような人は、「健康部門」で無能なのである。

一方、「仕事部門」のパラメータが低かったとしても、
家では家族全員に愛される存在かもしれない。
一人だろうが誰かと一緒だろうが、常に余暇を楽しめる人かもしれない。
ストレスを上手に発散できる術を知っていて、嫌なことをすぐに忘れられる人かもしれない。
風邪や虫歯にすらかかったことがない、超健康人間かもしれない。

これらは全部、その人がそれぞれの部門で有能である証といえるだろう。

だから、仕事で全然うまくいかなかったとしても、

「自分は無能だ」

と、過度に落ち込む必要はない。
人生というレーダーチャートの、ある一項目のパラメータが低いだけなのだ。

逆に、仕事でうまくいっているからといって、万能感を持つのは極めて危険である。
ある一項目のパラメータが高いというだけで、会社を出ればただの人であることを忘れてはならない。

世の中に、万能な人なんて存在しない。

「みんな違ってみんないい」

金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』

という詩を、小学校で習った。
小学生にして捻くれ全開だった僕は、

「そんなわけあるかい。綺麗事を言いなさんな」

と、聞き流していた。

その気持ちは、大人になって酸いも甘いも味わった今でも変わらない。

ただ、

「みんな有能でみんな無能」

と言い換えると、ちょっとだけスッと入ってくるようにはなった。

そもそも、有能とか無能という言葉自体を、あまり多用すべきではないのかもしれない。
ただ、この表現を使うときには、「何に関してなのか」という視点をはっきりさせることが必要だ。

そこがブレてしまうと、
ある一点のみを切り取って、自分や他人という存在そのものに「有能」「無能」のレッテルを張ってしまう
ことになる。

せめて、その視点を持つことに関しては、有能でいたいものである。

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