「働きやすい環境」と「甘え」の区別がついていない国の話
○柔軟な働き方をすると、なぜか肩身が狭くなる
僕が勤めている会社は、組織全体で見ると、決して良い雰囲気とは言えない。
「超ブラック」というわけではないものの、未だに旧態依然の体質がまかり通っており、それに嫌気が差して、入社後すぐに辞めてしまう人もいる。
でも、現在僕が所属している部署は、その中では比較的良い環境であると思っている。
(あくまでも「その中では」である)
ちょっと前に、全国的に大雪が降った日があった。
その日は予報よりも早めに雪が積もりだしたので、僕が働いている部署では、
などと話し合っていた。
作業に一段落ついた人から帰ることにしよう。と話がまとまったころ、隣のシマから、
という声が聞こえてきた。
同じ会社でも、隣の部署はいわゆる「体育会系」の雰囲気だ。
若い人も多いのだが、最近話題になっている
“若年の老害”
みたいな社員が複数人いて、つい最近も入社間もない新人が辞めたばかりだった。
(僕がいう「体育会系」の定義については、こちらに詳しく記載があります↓)
この「甘いなあ」は、明らかに僕たちに向けて放たれた言葉なのであるが、万が一僕らが反応したとしても、
「別にお前らに向けていったわけではないし」という言い訳が通用するくらいの、ギリギリの声量である。
『独り言っぽく、相手に聞こえるように文句を言う』
という、極めて卑怯な手法だ。
さて、いったい何が甘いのだろうか。
天候悪化に備えて、早めに帰宅することが甘いのだろうか。
翌日の出社を控えることが甘いのだろうか。
○「甘え」とは何なのか
他人を批判するときによく使われる、
という言葉であるが、その「甘え」が何なのかを説明できる人は少ない。
特に仕事における「甘え」はその傾向が顕著であると感じる。
なぜなら、
「働きやすい環境」 と「甘え」の区別がついていない人が、とても多いのだ。
これはうちの会社だけではなく、この国全体の問題である。
「働きやすい環境」とは、
不要なストレスが少ない状態で働けること
だ。
状況に応じて出社とテレワークを選択できたり
悩みをすぐに相談できたり
上下関係問わず意見を言い合えたり
プライベートの事情に応じて働けたり
上記のようなことを指す。
という好循環を生むのである。
一方、「甘え」とは、
やるべきことをやらないこと
だ。
「本当はこれをやらなきゃいけないのだけれど面倒だから…」と、労力を惜しんだり
「ずっとこうやってきたから、このままでいい」と、言い訳をして変化を拒んだり
自分がやるべき仕事を他人にやらせたり
不機嫌で他人をコントロールしようとしたり
このようなことを指す。
ご覧のとおり、「働きやすい環境」 と「甘え」は、全然違うのである。
ところが、この二つを混同している人(俗に言う「体育会系」に多い)は、
『常に負荷がかかった状態で働かなくてはいけない』
と思い込んでいる。
仕事のために苦労をしたり、私生活を犠牲にしたりすることが社会人の務めであり、たとえそれが不必要な苦労であったとしても、
回避すること=甘え
と認定されてしまうのである。
そのため、台風や雪が予想されていて、下手したら帰宅困難者になってしまうとしても、「出社すること」こそが社会人としての正解であり、出社しないことはもう「甘え」になってしまう。
そして、過去に自分が同じような状況で出動を強行し、見事に帰宅難民となり、会社近くのビジネスホテルやネットカフェに自腹で泊まった経験のことを、誇り高く自慢するのだ。
「昔悪かった自慢」や、「寝てない自慢」、「酔って記憶が無い自慢」と同じフォルダに仕分けることができる、激ダサ自慢である。
また、彼らは「働きやすい環境」と「甘え」の区別がつかないばかりか、「直接的な効果」しか見ることができない。
だから、天候悪化に備えて出社を控えた後、結果的に電車が止まらなかった場合、
と不満げに言うのだ。
脳の構造的に、
という胆略的な考え方しかできない。
このような「遠因による被害の予想」や、「複数の手段を考慮すること」ができないのである。
これは、非常に不幸なことだ。
(「考えることが少ない」という点で、幸せなのかもしれない )
それだけならまだしも、
「若い人や職位が低い人が負荷を被るべき」と考える(だから荒天でも出社させる)。
自分が家庭でうまくいっていないため、できるだけ職場に留まりたいがあまり、そこに他人を巻きこむ(だから荒天でも出社させる)。
そんな凶悪な犯罪行為に手を染めるのである。
○「良い甘え」と「悪い甘え」
これまで述べたとおり、彼らは
「甘え」をはき違えた挙げ句、「甘え」というもの自体を極端に嫌う
のである。
仮に「荒天に備えて早めに帰る」ことなどが甘えだったとしよう。
だとしても、
そもそも甘えを一律ダメにする理由はない。
むしろ、適度に甘えを出せるくらいの「精神的余裕」が必要だし、「甘え」を適度で抑えられるような厳しさが必要だ。
学生時代、テストに向けて毎日毎日何時間も勉強するよりも、たまに息抜きしながら、「やるときはやる」とメリハリをつけた方が、点数が良かったという経験はないだろうか。
これは、ひたすら辛い環境に身を投じて、時間を費やすことが正解とは限らない良い例である。
彼らが「甘え」と呼んで忌み嫌う行為は、仮に甘えだったとしても、結果を出すために必要なこととであり、むしろ「良い甘え」であると思うのだ。
では、「悪い甘え」とは何か。
それは、皮肉にも、体育会系の人間を見ればよくわかる。
“体育会系”というと、「厳しい環境に耐えることができ、精神的に強い」というイメージが持たれているが、
実は彼らこそが、悪い意味で最も甘えているのだ。
一般的には理不尽な命令に従うことが長所として見られているが、それはただ、
「物事を変えること」に消極的なだけ
なのだ。
そして、自分が命令を出す立場になったときには
という態度で接してくる。
圧力で他人を動かし、後輩や部下の自己犠牲に依存しているわけだ。
これらは、「悪い甘え」以外の何物でもない。
外国の派手な色のお菓子みたいに、胸やけのする甘さだ。
冒頭で述べた、僕らに「甘いなあ」と言った体育会系たちもそうだ。
天気予報で、何日も前から荒天になることがわかっているのに、何の対策もせずに思考停止で出社するのは、間違いなく甘えだ。
他の部署が雪に備えて帰宅することに一方的に不満を感じ、それを解消するために、聞こえるか聞こえないかギリギリの声で「甘いなあ」と言ってしまうその精神なんか、甘えの最たるものである。
大げさでもなんでもなく、この国が落ちていく一方なのは、こういう
「精神論」という悪い甘え
が要因であることは間違いない。
過酷な環境でも我慢して働くことは、ある意味立派なのかもしれない。
でも、しなくてもいい我慢はする必要がない。
過酷な環境を、過酷ではない環境に変えることの立派さに気づくべきだし、それを「甘え」と呼ぶのは、もういい加減に止めなくてはならない。
悪しき体育会系が悔い改めない限り、この国の経済も幸福度も改善することはない。
本当にもう、いい加減にせえよ。
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