【短編】今、あちら側へ行ったあなたから見た僕らは、どう見えているのだろうか。

筆:綾上澄(https://kakuyomu.jp/users/ayagamisumi)
編:なんかつくろう部

瀬戸内で育った兄弟の弟が、その間にいた一人の女性との思い出を回想します。

 僕らの街は港町で、少し高台に登ればその視界の半分以上が海の青に染まる。その海を挟み、さらに向こう、かすかにみえるのが、四国という島なのだと、僕らは直美さん――その時は直美お姉さんと呼んでいた――から教わったのだった。それは僕が小学校三年生のころの話だ。僕は兄ちゃんと直美お姉さん、三人でよく町を探検した。今にして思えば、学校の外の世界への興味が強いほうだったのだと思う。

「ほら、あの隅に橋があるでしょ。あれで私たちの本州とつながっているんだよ」

 ほんの少し視界を左にずらすと、根本が見えないが手前のほうから、橋が小さな島々に柱を伸ばして続いているのが見えた。僕はそれを見て胸が高鳴った。陸地と陸地をつなぐ橋、さらにその先にも人が住んでいて、僕たちのように学校に通っている子供たちがいることを想像して、わくわくする。僕がその上を走る自動車を目線で追いかけているのを尻目に、

「そろそろ帰らないと、叱られるな」

 そばのベンチに、直美が座っていて、その横でふらふらと体を動かしていた兄ちゃんが、いたって静かな声でそう言った。

「兄ちゃんたちは六年生になったんだから、六時まで大丈夫でしょ」

「今日は隆生(りゅうせい)、お前の付き添いだから、五時までだよ」

 僕は帰りたくなくて、景色にも関心を向けない兄ちゃんに腹を立てて、

「なんだよ、つまんないの。わくわくしたりしないの?」

「そんなのにわくわくしない、なあ直美ちゃん」

 直美ちゃんは、兄ちゃんのほうを見て微笑んだ。兄ちゃんが大の海好きで、家に帰ると海の魚や、船の図鑑をずっと見ていることを知っていたので、

「嘘だ、嘘だ」

「あのなあ隆生、こんな海は小さなものだよ。境もない、どこまで行っても海と空が交わるくらいの大きな海じゃあないと、俺は見ていたくないね」

 そのころから直美お姉ちゃんと兄ちゃんの、距離が近くなっていたと感じていた。単にからだの距離というわけではなく、なんとなく、心をお互いに差し出しあい、互いに響きあっているよう。その気心の共鳴を、見せつけられている気分になり、クラスで、だれだれの好きな人は、とか言いあっていたのがふと頭によぎった。

 いよいよ日は傾いて、海の水がやや鈍い朱色の光を僕らに投げかけた。

「透明な水が、光を吸収して青く見えたり、光を反射して赤くなったりする。面白いよな」

 その意味が僕にはよくわからなかったけれど、直美お姉さんは心の底を覗き見たいような視線で、発言した兄ちゃんの目を見ていたのはしっかりと憶えている。僕らは帰り道を急いだ。

そのことを、僕は折に触れ回想する。たまたま記憶に残っていただけということでもあるかもしれない。けれど、兄ちゃんの見ている海というものへのあこがれが、僕にははかり知れないほど大きなものなんだろう、という予感だけ、言葉にはできないけれど、このころからずっと抱き続けていたのだと感じる。

 続いて、中学校の定期試験の記憶がやってくる。兄ちゃんの部屋に集まったのち、僕のよくできた答案を、直美さんは頭をなでてほめてくれた。

「俺が中一のころより、よくできてるじゃないか」

 直美さんのブレザー姿の後ろに、地元の進学校の制服を着た兄ちゃんのやりきれないような表情があった。僕は褒められて純粋にうれしい気持ちに、自分の気持ちを紛らわすことができるほど器用ではなかった。僕を見てほしかった。自分と兄ちゃん、どこが違うのか、どうやったら打ち負かして直美さんに僕を見てもらうことができるのか、それを考え始めた。

 そのころから、勉強にはしっかりと打ち込んだし、学校の活動にも精を入れた。陸上部に入り、トラックを夢中になって走った。夢中に打ち込む姿を直美さんに見せたかった。自分の手の内にあるカードをすべて開示して、それでも及ばないなら諦めよう、そう思ったのだった。

 一年ほどして、直美さんは兄ちゃんと付き合っている、そう報告された。そんなことを告げられる前から、とっくに二人の関係の親密さには気づいていた。僕が全力を尽くしたのは、兄ちゃんに及ばない、それを認めたくない投げやりな思いを、少しでも紛らわすためだった。それは思考放棄にも近かった。

 地元の高校に受かった時、兄ちゃんは地元の国立大学に合格し、機械工学を専攻した。これまでと違って、海を見つめることが増えたように思う。小さな海で満足しない、そんなことを言っていた記憶からすれば不思議な話だった。

「瀬戸内の海は、穏やかなことで有名だ」

 兄ちゃんはそう語った。

「水位の変化が少ないから、その上に船を浮かべても安定する。つまり、造船に適した地形だってことなんだよ」

 兄ちゃんは僕に、将来の目標を語った。将来は造船会社に就職したいということを聞いた僕は、初めて彼の口から出た具体的な目標の、ゆるぎなさに動揺した。

 小学校の頃のあの日のような、なんとなくの大きな海へのあこがれが消え、より定まった形でその景色をつかみ取ろうという気概を感じた。

 歳の差はあれど、たったの三年。僕が兄ちゃんごろになるまでに、僕はそう言った明確な目標をもって行動することができるだろうか。いや、おぼろげながら、あの小学校の頃の情景を回想している自分はいる。人やものの流れに興味はある――けれどそれにどうやって関わればいいのか、正直分からなかった。

 そしてここでも、やはり直美さんのことが頭によぎる。彼女は看護学校に通っている――看護師になるという目標に向けて、ただそれだけに向けて必死に勉強を頑張っている。

 僕は彼らの関係に、はじめから立ち向かえるだけの力を持ってはいなかったのかもしれない。そう痛感した。

 それから投げやりな高校生活を終え、どこか遠くへ行きたい、と、なんのあてもなく都会の私立大学へと進学した。都市部の雑踏は僕が何者でもないことを猶更痛感させた。なんとなく、安定を求めるようになった。どっしりと構えた心にあこがれ、それを手に入れようと考えたとき、地元に貢献することへとなんとなく心が定まってはきた。

 一年して、兄ちゃんは造船会社への就職を決めた。都会のワンルームから祝いのメッセージ、味気ない「おめでとう」の短文を送ると、惨めな気持ちに心をむしばまれた。

 恋をしなかったわけではない。けれどそれは取り繕いで心の穴をふさぐものでしかなく、女の子からは決まって、人間味がない、冷たいなどといわれて振られた。正直に言って気持ちは直美さんにあった。そうして適当な恋をして、振られた夜に、ラインのやり取りは直美さんとしていたのだ。くだらない昔話ばかりしか話題にできなかったが、よく直美さんは飽きずに聞いてくれたと思う。

 兄ちゃんはしばらく造船会社の地元の支部に配属され、その後猛勉強した語学力が評価されて、中国に駐在することになった。うまくやっているらしく、無駄に気取った表情で工場内での自撮りを送ってくるのでおかしかったが、直美さんの目にはそれが輝いて見えただろうか。もう、このころには、直美さんへの想いは薄れていた。それは単純に、彼女の輝きが薄れていたからで、客観的に言ってもそうだった。

 僕がこの町の職員として赴任するべく、下宿を引き払って地元に帰ってきた。面接時に話した交通網に関する熱弁が功を奏したのかわからないが、ともかく少なくともやりたいと思える仕事には就くことができたことになる。

 僕ら兄弟は街の中でも成功者の兄弟だと噂する声を、街に住み続けた直美さんを伝って聞くことがあった。両親もまんざらでもないらしく、晩酌の席などでよく、大きな声でそれを言ったりするのだが、特段それが誇らしいこととも思わない。第一、僕らを兄弟としてくくって見ているあたり、なんだか気分が悪かった。僕も一人の人間として、この街をよくしたい思いで仕事を決めたのだから――少なくとも、建前上は。

 けれど、僕の就職に手をたたいて喜んでくれる直美さんの手前で、その話を遮ることははばかられた。なにより、直美さんは兄ちゃんの帰りを待っていた。いつまた日本に戻れるか、それは会社の裁量次第だが、直美さんはいつまでも待つつもりだった。

 身体がもつ限りは。

「今度日本に帰ってきたら、隆人君にプロポーズをしようと思うの」

 病室に見舞いに行って、嬉しそうにそう話す直美さんを、どうやって遮ることができるだろうか。足腰の機能が衰え、もう車椅子なしには生活のできない彼女の恋慕を、僕は聞き続けていた。

「こんな体で、夢物語だと思うけれど、それでもかなえたい夢なんだよ」

 涙声が混じり始めた直美さんの吐露に、僕はうなずくことしかできなかった。夢――夢という言葉が、直美さん自身にとって本当にそうであることはよくわかっているはずだったから。

「かなわないって、知ってるよ――きっと無理やりかなえようとしてくれるだろうから、そんなの、彼にとって迷惑じゃない」

 直美さんの体を病魔がむしばんだのは、兄ちゃんが中国へ行って二年目のことだった。地元の病院で看護師として働き始めて、仕事にも慣れてきたころのこと。

 彼女は病気のことを兄ちゃんには伝えていないのだそうだ。彼女の意向を尊重するのであれば、僕も兄ちゃんへそれを伝える必要はない。

 そのころまた、看護師として働いていたころの話をよく聞いた。

「海の近くだからね、やっぱり海の関連の仕事をしている人が多くて」

 彼女の印象に残っている患者というのは、すべてそういう人間らしい。海にあこがれている瞳に、何か感じるものがあるのだろう――そして、おそらくは彼女が生きているうちに帰ってこれはしないであろう、兄ちゃんのことへと思いを至らせているのは、想像に難くない。

 尋ねないほうがいい質問が僕の頭をよぎる。たまにこういう精神状態になることがある――僕は二人にとって、単に都合のいい人間というだけではないのか――直美さんの存在がなければ、もしかすると、僕は僕なりに充実した生活を送れていたはずではないのか。僕は兄ちゃんと直美さんの関係を、比較対象にしてしまっている。だからこそ、本当に少しだけ、彼女が死んでしまうという運命は僕にとっての足しになるという思いが胸を去来する。しかし、それはとても恐ろしい考えだ。人には言ってはいけない。

 見舞いを終えて帰る段になり、事務員にいつもご苦労様、と声をかけられるたび、それはなんのねぎらいなのか、分からなくなる。

 突然の連絡が入ったのは、その一週間後だった。

 曰く、兄ちゃんが工場でけがをした。右腕を切断するか否か、というほどのかなり大きなけがだそうで、一時帰国して治療に専念することにするという。

 近所の空港まで迎えの車を出し、ギプスで固められた右腕を三角巾で吊っている彼は弱弱しく、澄んだ目の色が明らかによどんでしまっていることに気づいた。

「これで一生、施工の現場には立てないな」

 兄らしくない弱気な言葉を受けて、僕は何とか彼の機嫌を取るべきだっただろう。本来なら、直美さんにも告げてやるべきだけれど、僕は思わず聞いていた。

「直美さんには言ったの?」

 まだだ、と答えた兄ちゃんに、僕は直美さんの病状を話してしまった。精神的にどん底にいるであろう彼に対し、さらに意地の悪い報告をするのは避けるべきかもしれなかった。けれど、いずれは気づくことだった。そう自分に言い聞かせる。

「……そうか、連絡は取りあっていたんだが、どこか行き急いでいたところはあった。そうか、直美は……」

 兄ちゃんが失意に飲まれるような表情をするのを見て、同情の気持ちは薄かった。自分でも薄情さに驚くほどだった。どれだけ彼らの存在に苦しめられたか、無意識は悲鳴を上げていたか、そこで気づいたのが初めてだというわけではない。兆候はあった。たまたま掛け違えたタガが、これがきっかけで外れてしまったのだ。

 兄ちゃんは病院に通い詰めることとなり、医師の懸命の努力もむなしく、腕を切断することになった。

「直美さんに報告するつもりはある?」

 僕がそう言うと、兄ちゃんはかぶりを振った。健康なままの姿を見せたいという気持ちは分かったが、

「でも、せっかくまた同じ町に暮らすんだから、会ってあげたほうがいいんじゃない? いつ手遅れになるかわからないし」

 ううむ、とうなりながら、兄ちゃんはうなずいた。

 後日、病院へと僕は車を走らせた。

 直美さんのいる病室に二人して入り、直美さんは当然驚いて僕ら二人の顔を見るが、

「隆人くん……その、腕は……」

「切り落とした。もうこれで、直美を抱きしめることもできなくなったんだよ――」

「ううん、それでも、顔を見せてくれてとてもうれしい……」

 二人してしずしずと泣いているそばで、僕はどうしても悔しい気持ちを抑えきれない。けれど、自分が何を望んでいるのか、それがぼやけていた。今更直美さんの気を引きたい? そんなはずはない。ただただ、僕の人生の中で彼ら二人の関係をまざまざ見せつけられることが、つらかった。

「隆生くんを頼って、しっかり生きていくんだよ」

 直美さんは、最後まで彼にプロポーズをしなかった。夢物語をそのまま夢物語にしておく判断、それは素直に尊敬できた。

 数か月ほど休んだのち、兄ちゃんは会社の地元の支部の事務局へ、電車に乗って仕事に行くようになった。

 休みの日はうつろな目で自宅に居座ることが増えた。

 もう造船ドックの現場に立てないということが、どれだけ彼にとってつらいことなのか。おそらくは出世コースであっただろう彼の人生を、自分の身に置き換えれば気持ちもわかるのだが、同情して慰めてやることだけはどうしても、できなかった。

 ある日、少しでも気がまぎれればと、幼いころ登った高台へと兄ちゃんを連れて行った。

「そうだな、海はいつも、どこであっても、俺に色を投げかけてくれるんだな――」

 彼はベンチに腰掛けて海のほうを向き、静かに涙を流していた。

「もう一度、三人でここに来たいな」

 僕はその声を聞かなかったことにする。僕の中で、ずっと何度も繰り返される光景を思い返す。それが二度と実現できないものと知っているからこそ際立つ光景だった。

「なんてな、昔の思い出に浸るのは、もうやめると決めたんだ」

 兄ちゃんの濁っていた目が再び輝きを取り戻しているのが、はじめはにわかには信じられなかった。絶望の渦中にあるだろうが、それでも前を向こうというのか。僕には到底真似ができそうにない。僕のほうが、未来はひらけている。それは確かなはずなのに、どこまでいっても、この兄を超えることはできそうにない。

「水は、何色にも見えるけどな。俺にはまだ、水がちゃんと青く見えるんだ」

 それから、兄ちゃんが日増しにいきいきとして会社へと行くようになるのを、僕はぼんやりと眺めるようになった。

 そして今、この回想をしている今、直美さんが亡くなったとの知らせを受けた。葬儀に僕らは参列した。兄ちゃんは、最後まで、涙を流さなかったが、僕はまるで駄目だった。

「これじゃどっちが恋人だったのか、わからないじゃないか」

 本当に、彼女の目線から見て、少しでもいい、僕のほうを恋人として見てくれることが、少しでもあったなら、どれだけよかったか。全てを受け入れて新たな道を進もうとしている姿に映る。僕は兄にはかなわないと分かっている。それでも一縷の希望を、僕は抱きたい――僕らの前にある遺影、その視線の主は、僕らの姿を見てどう思っているだろうか?

 直美さんの遺影は、僕には何も語りかけてこない。

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