気がつけば最近はオモコロで倫理観を得ている
『ボーはおそれている』を観ました。
前作『ミッドサマー』よりも僕は観やすく感じた、三時間があっという間だった。
ゴア描写も控えめだし、これまでの作品でも触れられていたテーマに対して真正面だったので自分にはわかりやすかった、アリ・アスター監督独特の気持ち悪い感じは残るけど、ちゃんとクスッとできる。
もしかしたら、女性の方の方が観てて辛いというか、ボーに対して残酷になれる部分があるんじゃないかと思いながら観ていた。
しかし、この映画を観た人が何を感じたのかはそれぞれだから難しいけど、Xでの感想を見ているとあまりにも誇張した言い方をしてないか?と感じてしまう。
監督自身、「これは苦痛を長く感じて貰う為に長尺にしている」というような発言を何らかのインタビューでしていたので、それに乗じた形で「三時間の地獄!ミッドサマーより狂ってる!」と言うのも間違いではないとは思うけれど、世の中が敏感な分、それで遠のく客足もあるんじゃないかと感じたり感じなかったり……。
自分は作品を鑑賞する時、そこから疑問や不快感を得る事も必要というか、表現とは基本的に傷つく為にあるし傷つける為に作っている節はあると感じているので、少しでも痛みを感じる部分を誇大に言う昨今はホワイトすぎる気がしていて……やっぱり人間同士が協力して社会を持続させている限りはお互い傷つかなきゃ見えない部分もあると思うし、ある意味ではそんなホワイトな社会を壊すためのアナーキーな行いが表現だと思っているので、現実に自分が解決できない問題が沢山ある分、映画くらいはちゃんと傷つきたいよね、というのが僕のスタンスなのだ。
『ボーはおそれている』に関しては、僕は不快感より共感の方が大いにある側だけど。
先月くらいに観た『鶏の墳丘』という映画の監督であるシー・チェン監督も「観客を混乱させたい」といった事を話していたと上映後の座談会で言ってた気がするので、やっぱり普段社会生活を送る上では無駄とされている創造の行為やそういった活動に触れる時はクリエイターに支配されて翻弄されたいし、そこに共感できたい。
リリー・フランキーも「鬱になるくらいの感受性がない人じゃないと友達になれない」みたいな事を言っていたと思うが、だいたいそんな感じ。
と、珍しく長々と話してしまった。
最近は自制として、あんまり自分の知識をひけらかしたり考え方とかを表明しないように気をつけているのだけど、いいものに触れたり酒を飲んだりすると発動してしまう。
気をつけたいけれど、まぁ、自分のnoteに書く分には構わないだろう、と、思う……。
しかし、今は何が公共であるか正直わからない、自分としては日陰でこそこそやっているつもりが、既存のプラットフォームを使って発信している限りは全部日の当たる明るい場所なのかもしれない、いつ自分の考え方や発言が炎上してしまうのかと思うと、迂闊な事は書いてられないなあ。
……むしろ、今まで日向だと思っていた現実が、陰であったインターネットに呑まれて闇そのものになったのが“今”だったりするのかな。
ピンク・フロイドの『狂気』でも「月の暗い側というのは本当はない、全ては闇なのだ」みたいな台詞があった気がする。
……そういえば、『ボーはおそれている』は『ピンク・フロイド・ザ・ウォール』に似ているかも?
……と、まあ、人間の長い人生には星を繋いで星座を描く事も大事です。
最近食べたもの。
このところ、奢って貰ったりしていいもの食べまくっている、羨ましかろう。
散歩もちょびちょびしている。
アイデア、降りてこい。