【名画座でしか観られない作品】 大島弓子に先立つ成瀬巳喜男 〜 「秋立ちぬ」 1960年

神保町シアターで「没後50年 成瀬巳喜男の世界」プログラムがかかっている。未ソフト化作品も多い。その中で12月7日から13日までかかる「秋立ちぬ」について3年前のメモ(ラピュタ阿佐ヶ谷上映)をもとに紹介する。

「秋立ちぬ」成瀬巳喜男、1960年。父親が死んで母親と信州から東京に引っ越してきた少年のひと夏の物語である。オリンピック直前の東京のあちこちを訪ねるロードムービー的な要素もある。

周囲の大人たちは理解を示すようなところもあるが、ほぼすべての人々が自分のことしか考えていない。母親さえもがそうである。

成長物語につきものの導師や先生は現れず、少年は最後まで疎外されている。しかしなぜか悲観的な印象はあまり受けない。まるで遠い記憶のようだ。

周囲の大人たちはエゴイストばかりだが、少年の内面を踏みにじっているのではない。もともと内面というものがないのかもしれない。高度成長期、ひたすら外部、目の前のモノに対する欲望を追いかけてゆく。追いかけてゆけば、なんとかなる経済的流れでもあっただろう。

モータリゼーション進み、信号・横断歩道がない交通量の多い道を危なっかしく横断してゆく子どもたち。子供たちが渡っていても、クルマもバイクもほぼ停止しない。多摩川で泳ぐ青年。カブトムシを捕りに井の頭にゆくはずだったが、友達に誘われて江ノ島に行ってしまう。

少年が身を寄せる銀座の八百屋。三代続いた老舗だが、都心部の地価上昇とともにドーナツ化現象が始まっており、既に「銀座に住んでいる人はどんどん減っている」。息子は「土地を売って郊外に大きな八百屋を開きたい」と思っており、娘はデパートガールで「店の仕事は嫌がる」。

少年は従兄(八百屋の息子)のバイクに乗せてもらい、深夜爆走する。「怖いずら」「そのうちこのスリルが分かるさ」。

これは大島弓子「夏の夜の獏」の一節、主人公の少年が兄のオートバイに乗せられて疾走するくだりを思い出させるシーンでもある。思えばこの映画、大島弓子のタッチにかなり近い。1960年、ローティーンであった大島弓子がこの映画を観たかどうかは分からないが、少なくとも原風景として共有されるものはあっただろう。

銭湯にゆくと同年代の子供たちが泳いだりして遊んでいる。ヨソモノであることをとがめられて水鉄砲を食らう。おそらく夕方になる前であり、女湯では水商売っぽい中年女性たちが会話している。

(2016/10/18-2019/11/28)