ふとしたことで亡命しなければならなかった若者たち 〜 映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」

下高井戸シネマ「僕たちは希望という名の列車に乗った」原題「沈黙の教室」、2018年、ラース・クラウメ監督。

舞台は1956年東ドイツ。卒業間際の高校生たちは西ドイツへの墓参りのついでに映画館に立ち寄ったり、西側の放送を隠れて聴くうち、ハンガリー蜂起を知る。ソ連支配にもともと抵抗感を抱いている彼らは示し合わせて教室で2分間黙祷を行うが、思想的に問題があるとして当局のチェックが入り、卒業を取り消されてしまう。実話ベースのエピソードである。

同性愛者と言われる叔父の家が高校生たちのアジールで、西側放送を聴いたりプレスリーやR&Bで踊るが、この叔父も高校生たちの事件をきっかけに検挙され、強制労働に送られる。「同性愛者には地獄のような場所」に。

結果的に高校生たちは集団で亡命することになるが、映画はそのシーンで終わっている。大塚英志氏が「ホットロード」など少女マンガについて述べていたような「未来へ」向けられたオープンエンド。しかし当然ながら「その後」もあり、ベースになった手記には亡命後の記述もあるという。

個人的には亡命後のエピソードも含めて映画で見たかったが、ここでは青春映画のようなビルドゥングスロマン的枠組みで切り取って作品にしているのだと感じた。日本の場合、エンタテインメントなどにおいても現実逃避の傾向が強すぎるので、社会・歴史問題を作品で描く場合、ロマンス的な枠組みをあえて脱色しなければならない傾向があるようだ。しかし、ドイツの場合はそこまで夢見がちではないようなので、これくらいロマンチックな味付けのほうが良いのかもしれない。

高校生に対する思想統制の細かい描写が、この作品の主眼といえる。個別に面談して、他のメンバーが裏切ったというガセを流しながら、転向をうながす分断策は、労働運動の切り崩しなどでもよくみかける手だが、ソ連側に立った当局がそういった手を使う。

西側にわたった亡命者のエピソードは、たとえば「西という希望の地」Lagerfeuer(2014年、クリスティアン・シュヴォホー監督)などを思い出す。この場合は西に行っても逆スパイの可能性をチェックされることになる。

東から西への亡命はけっこうカジュアルに行われていたようで、東ドイツ崩壊の直接的な原因も西への人口流出が一因であると読んだ記憶がある(「きのうの祖国」)。日本で言えば地方の限界集落から人口が流出してゆき、廃村になってゆくようなものだろうか。