大人になって見る「泣いた赤鬼」

泣いた赤鬼って知ってますか? 浜田廣介先生作の児童文学です。
個人的に名作だと思いますし、子供の頃は話を読んで涙しました。それを大人になって、ひねくれてしまった自分はどう読むのか、興味があったので文字に起こそうと思います
ひねくれた自分が書いたものなので、当然内容もひねくれています。
子供の頃のやさしい思い出を求めてきた人はブラウザバックを推奨します。

知らない人がいるかもと思い一応軽くあらすじを

泣いた赤鬼あらすじ

とある山の中に住んでいた赤鬼は、人間と友達になりたくてお菓子やお茶を用意して『心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます』と立て札を書き自宅の前にたてた。しかし、人間たちは鬼を疑って遊びに行かない。
悲しんだ赤鬼は立て札を引き抜いてしまう。
そこで赤鬼の親友の青鬼がたてた策が「俺が人間の里で暴れるから、お前がそれを止めて良い鬼アピールしな」というものだった。
当然赤鬼は反対するが、青鬼は作戦を強行。赤鬼は人間を助ける。
結果、作戦は成功し赤鬼は人間と友達になれた。家に遊びにも来てくれた。
しかし、あの作戦のあと、親友の青鬼は一度も家に来ない。
気になった赤鬼は青鬼の家を訪ねると『赤鬼君、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、僕が、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それでぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です』という、貼り紙があった。
それを読んで赤鬼は涙を流す
end

人は前提を信じる

この作品の一つ目のひどいところは、最初にたてていた立て札の書き方だと思います。
鬼=悪い奴というイメージがあるのに、例外的に心のやさしい鬼がいますよ! お茶とお菓子も用意したからいつでも遊びに来てね、と言われても人間側からすれば罠にしか見えないのは容易に想像できます
(ちなみにですが、自分の事を「心のやさしい鬼」とアピールしているので、鬼が怖がられているという事実を赤鬼はちゃんと知っています)

例えばですが、めちゃくちゃ怖面の人にいきなり「ちょっと屋上来いや。おはなししようぜ?  何にもしねーからびびんなって」と言われて、怖面の人が純粋に(友達ほしいなぁ……)なんて思っていると判断する人はいるでしょうか?(いるかもしれないので断定はしませんが)
人は「鬼=悪い奴」という前提を信じて鬼の家に行かなかったわけですね。

そこに青鬼という悪い鬼が暴れて、心のやさしい鬼と主張していた赤鬼が人間を助ける事で、以前から赤鬼が主張していた、赤鬼は「例外的に心のやさしい鬼」だと信じさせたんです。
つまり、先に前提を作って場面を演出して信じさせる。やはりここでも前提を信じています。
(赤鬼が人間と友達になりたいという思いから始まったのでこれは詐欺ではありません。いいですね?)

そして、青鬼は「悪い鬼と赤鬼が友達だったら、赤鬼も悪い鬼かもしれない」という人間の機微(前提とも言えるかもしれません)をしっかり把握し、赤鬼の前から姿を消します。赤鬼は貼り紙を見て初めて事態を把握し涙しますが、人間と仲良くなりたい赤鬼より青鬼の方がずっと人間と近い考えをしているのは少しだけ皮肉を感じてしまいます

簡単には埋められない偏見

ここまでは前提と書きましたが、言い方を変えれば、それは偏見とも言えるのではないでしょうか?
人と鬼という種族を越えて友情を築くには、文字では足りない、ということです。

ここで言いたいのは人と鬼の友情ではなく、これは現実世界でも普通に起こっていることなのではないか、という点です
現実に鬼はいません。けれど、自分達とは異なるルールや価値観で生きている人はごまんといます。
単純に外国人や異民族を名指ししているわけではないです。もっとずっと身近にいます
事故を起こした人だったり、障がい者だったり、元受刑者だったり、そこまで極端じゃなくてもモンスターペアレントだったり、ごみの日を無視する近所のおっさんだったり……
様々な偏見があるかと思います。あの人は信用ならない、と。

事実にもとづくのなら偏見ではないのでは? と思うかもしれませんが、裏事情があったのかもしれませんし、単純な勘違いから始まったものかもしれません
結局のところ、他人のすべてを知ることなどできないのだから、「百聞は一見にしかず」どころか自分の見た聞いたすら、フィルターがかかってしまうことがあると、自分は思います。

解決策は自分の足りない脳でそれなりに真剣に考えましたが、腹を割った話し合いくらいしか思い付きませんでした。(そんなことできたら苦労はしません)

脱線しましたが、泣いた赤鬼はそういうものも風刺されている気がします。

自己犠牲は素晴らしいのか

親友の青鬼が去り、赤鬼が涙を流してendですが、これはいかがなものでしょう
美談であるのでしょう。幼かった自分は、夢見た生活を手にいれた代わりに親友を失った赤鬼と親友を思い悪名を厭わなかった青鬼、どちらに感情移入していたのか忘れましたが、確かに涙しました。
しかし、長く生きるてみて見直すと、(言い方は悪いですが)騙されて仲良くなった沢山の隣人と一人の親友だったら自分は迷わず一人の親友をとります。

そして、何より言いたいのは青鬼のやり方がどうしても気に入らないのです。
青鬼のやり方では鬼は怖いもの、というイメージをより強固にしただけです

人間と仲良くしようとしなかっただけで、青鬼だってどう考えたっていい奴です。人間基準で。
赤鬼と青鬼が例外だったのかもしれません。もしかしたら鬼は人間をバリバリ食べたりする大悪党の怖い奴なのかもしれません。

でも、だからといって! 同族の悪評を広めるのはどうも間違いな気がするんです。もやっとするんです

結局どうすればハッピーエンドだったのか

これは児童文学で、ハッピーエンドが正解ではありません。伝えたいことがあるなら。
というか、何が正解とかないです。
物語が破綻しているわけではないし、欠陥があったわけでもないので。
だからこれは完全な自己満足です。

さて、妄想マシマシでいきます
前述の通り最初の立て札の文面がダメですね
というか、文字だけじゃダメです
さらに言えば、いきなり家でお茶とか怖いに決まってます(少なくとも自分はその日初めて話す人の家に上がり、話しかけにいくとか無理です)
自宅の庭に、オープンテラスでも作りましょう。そこで青鬼君と楽しく宴会でもします。『楽しんでます、よければ一緒にどうですか』みたいな看板を出して。あ、看板の内容は赤鬼君考えなくていいです、そこは人間の感性のわかる青鬼君の出番です。赤鬼君は青鬼君が短絡的な行動を取ろうとしたらねじ伏せる勢いで見張っててください
必死に楽しみます。何がなんでも楽しみます。
そしてふらふら~っと宴会を覗いてきた人が来たら、一緒に楽しみます。全力で楽しみます。
時期を見て慈善活動を始めましょう。
生きていく上で必須だけどみんなやりたがらないことをしましょう。
そうして、徐々に徐々に距離を縮めていくことこそが、真の理解と友情へ繋がると自分に言い聞かせて。
時間はかかるは、うまくいく保証はないはで、実際青鬼君のマッチポンプまがいの方が早く仲良くはなれるだろうけど、相互理解には繋がらないと思います。いや、繋がるかもしれないんですけど、その方法が自分の好みではないだけで。(人柱が必要なのがどうも……綺麗事を言っている自覚はあります)

おわりに

なぜこんなことを書いたか。
文頭に書いたように、文章にしてみたかったって言うのもありますが、現実の偏見や民族の弾圧とかなんか解決策あればいいのにとの思いから、こういう方向に文章の方向が進んだんだと思います。温故知新というか。うん。
少しでも楽しく読んでくれる人がいることを祈って

駄文、長文失礼しました
かしこ

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