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第一章 壱 熊野の里

「アア~星がきれいだな」気が付くと僕は夜空を見上げて、星を見ていた。
「あっ、さっきのヒキガエルはどこに行った?」
あたりを見渡(みわた)してみた。
暗くてよく見えないが、ヒキガエルのいる気配はどこにもなかった。
ここはどこだろう、自分がどこにいるのかさえ理解できなかった。
確か、僕は和歌山の祖母の里に遊びに来ていた。
盆踊(ぼんおど)りの後(あと)、弟と一緒(いっしょ)にスイカを食べて、縁側(えんがわ)で母たちの帰りを待ちながら一人で星を見ていると、大きなヒキガエルが庭から飛び出してきたのだ。
僕はそのヒキガエルにいきなり飛びつかれて気を失ってしまい、気がつくと背の高い草むらの中にいた。
草むらから出ようとして身体を動かしてみたが、なんだか変な感じがした。
「これはなんだ、ペタンとした手に四本の指、身体は深緑と焦げ茶色のマダラ、まるでヒキガエルのようだ」もう一度、頭の中を整理しようとした。
「あの時、大きなヒキガエルが飛びかかってきて、僕は気を失って……。」
ボーと考えていると、足元の地面がモゾモゾと動いた。
「ア、ミミズ!」次の瞬間。
勝手に舌(した)が伸びて、パクリ……ミミズを食べた。
「ウワーミミズ食べちゃった、気持ち悪い」ぺ、ぺ、と吐こうとしたが無駄だった。
なんだか自分が情けなくなりため息をついた。
どう考えても、僕はヒキガエルになっている。
これは夢? 夢にしてはリアルすぎる。
もしかしたら僕はあの時死んでしまい、ヒキガエルに生まれ変わってしまったのか……。
そうとしか考えられない。
突然の出来事で暫(しばら)く動くこともできずにいたが、持ち前の好奇心もあり、様子を伺いながら、草をよりわけ出てみると、見覚えのある家が目の前に建っているではないか、これは……祖母の産まれた家?
「ああ……お婆ちゃんの家だ」喜びと安(あん)堵(ど)で、ためらいもせずに家の方に飛んで行った。
僕の知っている祖母の生家とは少し違うこの家は、中央にある玄関は変わらないが、台所の方にも木で出来た引き戸があり、その引き戸は少し開き、灯りが漏(も)れていた。
僕は引き戸の方に近づいてそっと中を覗(のぞ)いた。
部屋の中は土がむき出しになっている土間が奥まで続き、その右側に一段高くなった板間があった。
板間の上には大きな長四角のテーブルが置かれていた。
テーブルの上に電球がひとつ点いているだけのうす暗い部屋で、奥に小さな窓があった。
その窓の下の土間に、雪で作られる、『かまくら』のような形をしたコンクリートの丸い物体があり、その物体の下はやはり、かまくらのように穴が開き、中で火が燃えており、その上に、大きな鍋が置いてあった。
部屋の中では浴衣を着た、若い女の人が土間と板間を行(ゆ)き来(き)して、茶(ちゃ)碗(わん)を並べていた、そこへ奥の部屋からシャツとステテコ姿の若い男の人が出て来た。
「藤松さん、かまどにおかいさん炊けちょるから、卓袱台(ちゃぶだい)におろいて」そう言われて、その男の人はそばにあった手拭いで、鍋を掴みテーブルに置いた。
あのかまくらのような物体は、『かまど』と言う物で、あのテーブルは、『卓袱台』と言うようだ。
「ぎんさん、かまどにやかん掛けとこうか」男の人が言うと、女の人は土間の奥にある大きな丸い壺から、ヒシャクで水を汲んで、やかんに入れかまどの上に置いた。
丸い大きな壺は、水を溜めている水瓶(みずがめ)のようだ。
僕はふたりの会話を聞きながら、ハッと気づいた。
藤松さん……ぎんさん……知っているぞ。
確か墓標(ぼひょう)に刻まれていた、ひい爺さん、ひい婆さんの名前だ。
会話を近くで聞こうと、そっと台所に入り、水瓶の後ろに隠れた。
僕にはふたりの姿はよく見えないが、どうやら茶粥(ちゃがゆ)を食べているようだ、番茶のいい香りがしていた。
「おとやんに続いて、おかやんも、のうなって寂しくなったのら」とぎんさんが、話し出した。
「わしが貰い子やったから、ぎんさんにも随分(ずいぶん)と肩身の狭い思いさせたけど、おとやんや、おかやんの世話をようやってくれて、すまんかったのら」
「肩身の狭いおもいなどいちょんしとらん」
「子どものいなかった、古野のおとやんや、おかやんに、小さい頃に貰われて里に来てもう二十年になる。もとのおとやんは、おかやんと、まだ赤ん坊だった弟を連れて、ブラジルに開(かい)拓(たく)団(だん)として移(い)民(みん)してから、もう随分(ずいぶん)たったのら」
「もとのおとやん、おかやん、弟さんも達者(たっしゃ)で暮らしているかのう」
「心配してもしかたないわだよ、わしにはぎんさんと義一がおらよ、秋にはもう一人赤ん坊も産まれる、明日も早いしもう寝るら」
「義一が寝とらよ、起こさんで静かにのら」
そんな会話を交わし、藤松さんは奥の部屋へ消えて行った。
ふたりの会話を聞き、藤松さんはちいさい頃、子どものいない古野家に貰(もら)われて来て、里に住んでいたぎんさんと結婚したようだ。
藤松さんの生みの親は弟を連れてブラジルに行ったのだ。
「開拓団ってなんだろう?土地などを開拓する人のことかな?」
などと一人で考えにふけていると、ぎんさんは食べ終わった茶碗を、僕が隠れている水瓶の横にある流し台に運び、ヒシャクで水を汲(く)みながら洗いだした。
どうやら水道がないようだ。
ぎんさんは茶碗を洗い終わると、台所の電球を消して奥の部屋に消えて行った。
真っ黒になった台所の水瓶の裏で、ふと我に返った。
「僕はいったいどうしてしまったのだろう」

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