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razbliuto

見慣れた最寄駅からの景色。何回も読み返した小説を鞄に突っ込んで、階段を小走りに駆け下りる。

何回も読み返しているのに、印象的なシーン以外はからきし覚えていないというのは、つくづく人間の記憶力の貧弱さを感じて悲しくなる。

『あれ、ここの建物なくなってる。』『何だったっけね、ここ。』

昨日友人と交わした会話を思い出す。風景の一部と認識された建物は、消えたところで何の感慨もない。


そういえば、「女は愛された方が幸せ」とのたまっていた文献の名は何だったっけ。「愛された方が幸せだけど、愛した方が楽しい」と満面の笑みで豪語していた芸能人は誰だったっけ。その時私は何を思って、どうしたんだっけ。


“忘れられたら存在しないのと一緒だ”

この淡々とした文章に出会った時は、なんて残酷な台詞だと思った。当時高校生の私には救いがなかった。出会いは結末に関わらず、必ずプラスの原動力になると盲信していたからだ。

でも、残酷と感じてしまったのはある種共感のようなものを抱いたからなのだ。この文章によって、自分の経験が言語化されてしまっただけだった。


今は確かに覚えている。くだらない夜。くだらないけど、そう口にするのも惜しくて、ただあの時間だけが確かだった。過去の自分も次の予定も要らなかった。

寂しそうな横顔。何かを訴えていたあの瞳。近づくと香る石鹸の匂い。好きな曲の話。歌手の声より、その鼻歌を覚えていたかったこと。


私も、きっと誰かに忘れられている。深夜4時。今この瞬間にも。

ただ、忘れられるより、忘れる方が悲しい。忘れたことさえ忘れてしまう。その時の感情ごと全て。

だから、忘れたくないと硬く信じていたこの夜だけは書き留めておきたい。この雑文だけは確かにここに存在するのだから。

もうこんな感情には出会えないと信じている方がいい。次はない。何であれ模倣は自分の過去であるのが一番悲しい。

初めて並んで歩いた日は、同じような天気の深夜だった。月の形は、きっと満月だった。


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