「考えすぎ」のなにか

どうも、学生です。
深夜によく考え事をすることが多い学生です。
まぁ、みんなそうでしょう。多分良い時間帯で暇なんだよ。
というわけで、今回は、「『考えすぎ』のなにか」です。

「考えすぎだよ。」
今までの人生で何度言われてきたか。
多分人の数倍は確実に言われている自信がある。
いや、誇りでも何でもないけど。

「考えすぎ」の例として、
何かあったかなぁ。と回想してみると、

好きな芸人さんのライブに行きたいけど、果たして私なんかが行っていいのだろうか。好きではあるものの、他の人と比べるとその芸人さんを追ってるわけでもないだろうし、好き度合いも違う。もっと古参の人であったり、好きな人が行くべきだろうから、今回は辞めておこうかな。でも、行ってみたいのは事実だし。…う~ん。どうしよう。

といった感じである。

どうだい。
やかましいだろ?
でも、実際に私の頭の中でこの考えがうごめいているのは事実だし、
この考えすぎのせいですべてのことに対して動けていない。
足踏みをしている状態である。

「石橋をたたいて渡る」

ざっくり故事と意味を言うと
壊れようのない石でできた橋でも、安全かどうか確認するため、念のために叩くことから、用心に用心を重ねることへの例えとして用いられる。
こんな諺があるが、
私の考えすぎはこの諺になぞって言えば、

「石橋を叩きに叩いて、壊れないけど渡らずに帰る」

ここまで行くだろう。
石橋でも、安全かどうかわからないから、
叩いて叩いて、これでもかというほど叩いて、
それでも怖いから叩いて、
時間が経って、
それでも壊れはしなかったけど、
叩くことで得てしまった疲労なのか、
はたまた、まだ安全ではないと考えているのか
多分どちらもあると思うが、
石橋を渡ることをあきらめてきた方向に帰っていく
という具合であろう。

渡った方が楽だし、
良い思いを得られる可能性があるのに、
それはもう頭の中でわかってて、
シミュレーション済みではあるのだけれど、
多分、周りから自分という存在がどう見られているのか
いや、どちらかと言うと
周りから自分という存在はあまり見られていないということに対して
いまだに真実味を帯びていないが故のことなんだろう。

今日も私は石橋を
渡れないんだろうなぁ
というか
渡らないんだろうなぁ
と思いながら叩いています。

今回はここまで。
次も何卒。

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