「手に入れられなかった」のなにか

どうも、学生です。
今一番欲しいものは、エスプレッソマシンの学生です。
次点でバカでかいホワイトボード。
さて、今回は「『手に入れられなかった』のなにか」です。

YouTubeで最近見た動画の一つ。
それは「探偵!ナイトスクープ」のある一つの依頼。
それは、身体としては男性であるが、性への違和感と女性への憧れがある方が、女性ホルモン投与治療を本格的に行う前に、依頼者が長年続けてきた野球、その中のピッチングで140㎞を目指すというものであった。

この動画を見て、私は目に涙を滲ませたが、流すことはなかった。
どちらかと言うと流せる状況ではあるものの、流せなかったというべきか。

感涙することに対して制御が行われたのは、おそらく、
自分の情けなさに対して、涙を流すことは割に合わないのではないかと感じたからではないだろうか。

自分の中で、涙を流す行為はその人物への感情移入の末、行うものであると考えている。
「可哀想」とかそういう他者視点のものではなく、
「辛い」「苦しい」という推測ではあるものの、登場人物が感じ取ったであろう感情をそのまま、「私」という身体が感じ取り、身体表現を行った先の事象であると捉えている。

依頼者は一生懸命であった。
それは、最後のピッチングの時もそうであるが、
今までの人生。それは野球だけではなく、自分との対話において苦しんだところも含まれている。
だからこそだとは思うが、動画の中に登場してきた依頼者の周りの登場人物は皆素晴らしい方々に見えた。
「恵まれている」という言葉は、あくまで自分視点すぎる誉め言葉としては安易な言葉かもしれないが、
その言葉が当てはまりすぎている方々であった。

私はどうであろうか。

比較することはあまり良くないことはわかっている。
比較することで得られるのは、自分自身の劣等感ぐらいである。
ただ、今回はしょうがなかった。

私自身も中学まで野球をやっていたからである。
ただ、依頼者と明らかな差がある。

私は一生懸命ではなかった。

練習というのロクにやってこなかった野球人生。
私のような人間が「野球人生」という言葉を便宜上でも使うのが烏滸がましいと感じてしまうほどのものであったと感じている。

でも、周りの人間には恵まれたと感じている。
こんな私の馬鹿に付き合ってくれる人。
こんな私の話を聴いてくれる人。
こんな私に話を聴いてもらいたいと思ってくれる人。
様々ではあるが、私にはもったいないほど恵まれている。

そんなことだから、比較してしまった。
一生懸命が故に周りにも恵まれた人間と、
何もしてこなかったのに、恵んでもらっている人間を。

ものすごくifの世界ではあるが、
もしも、あの時一生懸命であったら、
結果というものが付いてこなくても、
劣等感を自給自足するしがらみからは解放されていたのだろうか。
恵んでもらっている自分を良く思えていたのだろうか。
ifの世界ではあるが、そんな世界線あったのではないかということを
今でも待ち望んでしまっている。

自分の情けなさが故に感涙できなかったと先ほど嘆いていたが、
実際には、
自分への情けなさや劣等感、今の状況への申し訳なさに加え、
それらから誘発された手に入らなかった世界線への渇望、羨望
そして軽い嫉妬が要因ではないかと。
そう考えてしまっている。

今も一生懸命な人生を送っているとは考えづらい。
周りがきらびやかに見えているのに対して、
憧れという光を追い求める眼差しを向けてはおらず、
爪を噛むという行為でしか表せないほどの小さな器の人間の妬み嫉みの充満

これから私は一生懸命でいられるのか。
恵まれた環境を与えてもらっていることに対して、還元できるのか。

今日も奥までどす黒く濁った眼を無理やり閉じて眠るのか。

今回はここまで。次回も何卒。


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