「大人」のなにか

どうも、学生です。
Barにとてつもない憧れを持つ学生です。
悩みを抱えているときに「マスター」と声をかけたいものです。
さて、今回は、「『大人』のなにか」です。

子どものころ、よく祖母など大人の人から
「大人っぽいねぇ。」とよく言われていた。
多分、子どもに似つかわしくない礼儀や謙虚さを兼ね備えていたためであろうと今となって考える。
私は、そんな言葉に、
他の子どもに対する若干の優越感と、
「まだ子どもでいたい」という年齢の合っていない反抗心があった。
でも、多分だが、反抗する気持ちはごく少量で、
大方、他の人とは違い、大人の階段を二段飛ばしで上がっている気分に
どっぷりと浸っていた。

時は流れ、現在に至る。
私は、成人となり、「大人」になった。
ただ、私は”形として”「大人」になっただけであると
いまさらになって気づいた。
成人式や久しぶりに友人と会う機会、
日常として流れる大学生活で
私は、”形として”の「大人」なのだと、まざまざと気が付かせられる。

特に、他の「大人」になった人の見てくれを見て感じている。
「人は第一印象で決まる」とはよく言ったものである。
その言葉を私は斜めから見下ろし、あざ笑っていたように思う。
「結局は内側であり、外見は二の次でいい」と。
多分、そんな考えを、「大人」になった人間は
さらに見下し、あざけ笑っていたのであろう。
今の私も、同じように考える。
まだ「大人」になりきれていないため、
あざけ笑うことはできやしないが、
少し怒りを含ませた冷ややかな目で見ている。
「そのような考えが、大人になりきれないのだ」と。

髪色を変えるとか、
今までとは違うファッションをするだとか、
そういう見た目の変化に、
学生なりたての頃は、鳥肌が立つほど毛嫌いしていた。
「気持ち悪い」とまで思っていた。
特に成人式終わりの同窓会まがいの飲み会である一人が、
乾杯の口上として、着用してきたスーツの値段を発表した時は
悪い意味で震え上がった。
今でも、そのノリはキツイと感じるが、
見た目を変化させてきたのは、今考えると「大人」であったのかと感じる。
決める時にはビシッと決める。
多分それは、人と会う時の「大人」としての礼儀であろう。
そして、何より今感じるのは、
その時も薄く感じていたが、
そんな奴らが、自由を体現しているように見えた。
学校とは違い、自分を自由に変化することができる。
同窓会では、そんな奴らが多くいて、きらびやかに見えて、
若干の妬ましさを感じていた。
ただ、自分が他人に対して妬ましいという素振りを見せないために、
私はそれを斜に構えて見ていただけであった。

だからであろうか。
今でも、見てくれを良くしようと努めることに、
気持ち悪さを覚えてしまうのは。
少し大人っぽく見せようと、衣服を今までと変えてみることや、
ワックスを付けて、美容院から出た時と同じようにしようと試みることも、
全て気持ち悪いと感じてしまうようになった。
気持ち悪いと感じてしまい、
そっと「大人」への気持ちと衣服とワックスを所定の位置に戻し、
ゆっくりと、何も考えまいと
元の私に戻す作業を行う。

一番最初のかけてくれた言葉、
「大人っぽいねぇ」
今になって気づく。
あれは、他の子どもと比較して、少し「大人」に見える振る舞いがあることを伝えただけに過ぎず、
「大人」に近づいているとは思って発言していないのだろう。
あくまで比較対象は他の子ども。
「大人」ではなかったのだ。
勘違いをしていた私は、優雅にゆっくりと階段を上がっていったが、
気付いたら、私の目の前には幾人もの「大人」になった友人、関係者が見えている。
気付くのが遅かった。
今でも「大人」になることへの気持ち悪さが
一種の呪いのように私を縛り付けている。

以上。それではまた何卒。

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