「雪と雨」のなにか

どうも、学生です。
折り畳み傘は骨が折れたまんまの学生です。
まぁ、使えるから良いんですけどね。
さて、今回は「『雪と雨』のなにか」です。
この間雪が降ってましたからねぇ。
雪降ってるときに書きました。それでなんです。

いつからでしょうね。
雨が降っても、雪が降っても、
ワクワクしなくなったのは。

昔は、雨が降ると
傘が差せたり、雨具を着たり、長靴が履けたり、と
いつもとは違う自分になれてる気がして、
いつもよりはしゃいだり、水たまりに入ったりしてね。
雪もそう。
雪が降ったら、それはそれは、一大イベントのようにはしゃいでた。
雪合戦したり、小さめの雪だるまを作ったり、
別に休みだから、外に出なくてもいいのに、
雪が降っていることを知ったら、
外出て見たり、窓開けたりして、
せっかく暖房付けてた部屋が台無しになったりね。
そんなことが子ども時代にあったよね。

でも、いつからだろうか。
雨や雪が降ることに楽しみを感じなくなったのは。

いや、楽しみであったり、嬉しかったりするときはある。
今でも。
それでも、昔よりは
興奮とか高揚感とか
そういった大人が良く言う「子ども心」が
なくなっていき、
いつしか厄介なものになってしまった。
億劫なものの象徴になってしまった感がある。
大人になったと一括りにすれば、収まるのだろうが、
それに抗っていたいという思いがあるからなのか、
なんとなく悲しくなってしまうのだろうな。

でも、多分大人になってから、
やっていないからそういう思いになるのではないか?
子ども心に忠実になってもいいのではないか?
別に誰かに咎められるわけでもないし、
抑制するほどのものでもないからね。
だから、

子ども心の思うがままに外出てみたんですよ。

はい。
「不要な外出は控えてください」と言われている最中、
私は、厚着をして、長靴を履き、
「子ども心の思うがままに外出するのは、不要な外出には含まれん!」
と、意味の分からない言い訳を脳内でかまして、いざ!

正直、ここまで心が跳ね上がるとは思わなかった…。
外を出ると、当たり前だが雪が降っている。
でも、豪雪とまではいかないため、
ゆっくりと白色が暗闇の中を降りていく。
落ちた先は有象無象の一かけらになってしまうが、
それでも、一つの風景を彩っていることには違いない。

一歩、また一歩と進む。
いつもよりも遅い速度で闊歩していくが、
いつもより足取りが軽く感じるのはなぜだろうか。
慎重を心がけるが、それでも、頭の中では
「コケるのもまた一興」と考えていた。

道を行く。
同じ道であるのに、違う道のり。
積もった雪に街灯の光が跳ね返り、
いつもより明るくなっている道を行く。
歩道と車道を分ける簡易的な白線も
この時ばかりは機能していない。
人工的なアスファルトも見えない。
自然に雪原と化してしまっていた。
やはり、違う道を歩いていると気が付く。

そのあとは、ただの散歩をしていた。
ただ、いつもの見慣れた風景も
珍しく雷鳴と稲光も共存していたためでもあるが、
雪に魅せられ、瞬く間に違う街へと変貌していた。
目標地点としていたファミリーマートもなんだか違う。
京都の景観に合うように設計されたものを見つけたかのようであった。

暖かい飲み物と食べ物を頬張りながら帰路につく。
先ほどのような高揚感は薄れ。
もうこの小さな旅も終わりが来てしまう。
そんな悲壮感を漂わせながら、
歩いていく。
雷鳴におびえながら。

そんなこんなで雪中の散歩は幕を閉じた。
やはり、「深夜に家を出る」「忠告を無視する」といった
少し背徳感を感じながら行うものは
全ていつもと何か違う。
今回もそうだった。
やってよかったと感じる。
ありがとう。
自分の中にまだ”無茶苦茶な”子ども心が存在していると気づかせてくれて。

今回はこんな感じ。次回も何卒。

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