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『留守』を【朗読劇】と【演劇】の二種類で映像化する理由。

こんばんは。何色何番のたかつです。もう12月だなんて信じない。2020年が終わるだなんて嘘だ。そんな気持ちの今日です。

 昨年から計画を進めていた、岸田國士さんの戯曲『留守』の上演。かつてない未曽有の社会情勢から、苦渋の選択で、通常の演劇上演はできないと判断した私たち。残された選択肢は、中止か、延期か、映像化するかの3つだった。多分、2.3か月は悩んでいたと思う。正直に言うと今でも「やっぱり中止した方がよかったのだろうか」という考えが頭をよぎる瞬間がある。でも、私たちは【岸田國士さんの『留守』を映像化する】という道を選んだ。
映像化することに関して、決して気軽ではない気持ちを綴ったnoteはこちら。

「できるかもしれない」「できないかもしれない」と揺れていた時が一番しんどかったように思う。「よし、どうなるかわからないけれどもやってみよう」と前向きに決断した後は、前に進むための選択ばかりだったからだ。やはり、表現活動というものは楽しい。生きていくうえで水や空気のように必要なものだと強く実感した。

 今回【映像化】するにあたり、私はまず【朗読劇】という形を選んだ。先日、出来上がった映像作品のチケット販売を始めたので、四苦八苦して産み落とされた作品を観てやろうと思う方はぜひこちらのチケット販売窓口へどうぞ。

以前書いたnoteには
『留守』での朗読劇と演劇の二種類に挑戦する
ということは書いたが、「なぜ二種類に挑戦するのか」は書いてなかったので、その理由を書き記しておこうと思う。

 そもそも、朗読と演劇の違いは何か、とか朗読と朗読劇とリーディングとドラマリーディングの違いとは?みたいな話は、人によって様々な論争があるらしい。ので、私の中での定義というか、住み分けを述べる。

【朗読劇】は演者が脚本を手に持つ。主に観客の「聴覚」へ向けて発信し、その限られた情報で、観客の「想像力」へ働きかける。

【演劇】は演者が脚本を手に持たない(ことが多い)。「視覚」を始め、朗読劇よりも情報量が多い。その情報量の自由度は高く、演者・演出の裁量によって決められる。

これはあくまでも私の場合であるが、大きな違いは「情報量」である。言い換えると「想像の余地」である。

 ところで、私はいつも演劇を作るときは演者たちに「脚本を立体化してください」とオーダーする。それが「観客の目の前で演技をする」という舞台表現の土台だと考えているからである。
しかし、映像は「平面」である。
いったん立体化したものを平面化するってどゆこと?
映像を勉強してきていない私にとって、この疑問が非常に根本を揺るがす事態であった。
「立体化たのしーい!すごーい!おもしろーい!」と、保育園児の時頃から33年以上も演劇に縁のあった私としては、本当に、難しい問題である。

その難問に対し、私の手段としての【朗読劇】と【演劇】の二種類である。
これも少し前にnoteに書いたのだが、私は演劇を目的ではなく手段だと考えている。朗読劇も同じだ。

 『留守』という戯曲をよりよく表現するには。より何色何番らしい表現にするには。演者たちの魅力がより伝わるようにするには。

つまり、わたしは【いったん立体化したものを平面化するってどゆこと?】という模索をしており、この超難問に対して、まずは「情報量が少なく、想像の余地がある朗読劇」という手段で挑戦してみたのだ。

あらためて、出来上がった【朗読劇】の映像作品を観てみて気が付いたこともいくつかある。
また、【映像化】の良さというかメリットも発見した。
それらについてはまた文章量が多くなるので、後日、別の主題としてnoteに記録しておこうと思う。

 そして【朗読劇】の映像化を終えた今、次はいよいよ【演劇】という手段である。簡単に言うと、画面の中で動くのである。朗読劇では基本的に定点に座って演技していたが、演劇では空間を『留守』の舞台に創り上げ、その中を演者たちが動き回っているのである。それを撮影し、編集するのである。これはまた難儀な。
同じ【映像化】でも、手段が違うとどんな違いがあるのか?という点も面白いし、最終的に「立体を平面化」してみた結果も楽しみである。興味を持ってこれを読んでくれた人にも、楽しみに待っていてくれたら嬉しいなと思う。

もうひとつ、理由がある。

stayhomeによって、奇しくも表現作品の価値を改めて感じた人も多いことだろう。表現。文化。芸術。いろんな言葉があるが、わたしはそれらを「人がよりよく生きるために必要なもの」だと思っている。

私はstayhome中はもちろん、ここ数年楽しませてもらっている表現活動と言えば「ハロプロ」である。楽曲、パフォーマンス、努力し成長する人たち。MVを観ては元気をもらっていた。
モーニング娘。'20が今年の1月に発売した楽曲『KOKORO&KARADA』『LOVEペディア』『人間関係No way way』をご存じだろうか。このうちの二曲『LOVEペディア』『人間関係No way way』は楽曲は同じものを使用し、アレンジ・歌詞・ダンス・衣装などは全く違うものを創り上げている。私はそのアイデアに驚いた。なんて面白いんだろう!と心が躍った。同時に、それを成立させている彼女たちやスタッフさんたちがすごいなと思った。かなりややこしい挑戦だからである。案の定、二つの曲をリミックスしてコンサートなどでは発表されたりしていて、本当に面白い試みだった。

私も本来ならば。この『留守』という作品を、2.3パターン試したかったのだ。以前、『Amayadori cafe』という作品では「同じ作品・同じ役者で、配役を変えるとどうなるのか?」という挑戦をした。結果、全く違うものになり、味わい深い企画となった。
『留守』では役者3人一組を2.3組作り、同じ戯曲に挑戦したかったのだ。きっと結果は全く違うものになっただろう。そうやって、戯曲の面白さや、演者の魅力を引き出した公演に仕上げたかった。
しかしコロナ禍では、関わる人数をなるべく減らした方がいいと判断し、その計画は断念した。
その代わり「同じ戯曲・同じ役者で、手段を変えるとどうなるのか?」ということに挑戦しているのだ。「人が変われば」ではなく「手段が変われば」どうなるのか。戯曲の味わいは。演者の魅力は。どのように変化するのだろうか?表現活動と言うものは、本当に、探求しがいのあるものである。

そういえば、『留守』の中でもこんな台詞のやり取りがある。

お八重さん  一緒に、本を読むんだよ。
おしまさん  どんな本……?
お八重さん  面白い本があるよ。
おしまさん  自分独りで読めばいいぢやないか。
お八重さん  それぢや面白くないよ。読んだことを、また話し合はなくつちや……。
おしまさん  さうかねえ。あたしや、字なんか読めなくつてもいいから、何か、歌のうたへる人がいいね。
お八重さん  一緒に歌ふの。
おしまさん  歌ふのを聞いてるのさ。あたしや、男のどこに惚れるかつて云へば、声に惚れるね。

本を読むこと、歌を歌うこと・聴くこと。100年前の人々も、表現作品や表現活動を楽しみ、暮らしに必要なパーツだと理解していたのだ。


ちなみに、村井さんの朗読企画を映像化した(編集した)のは私である。村井さんからオーダーは「絵本みたいなイメージ」だった。絵本とはつまり、平面でもある。【朗読】という立体化を「平面」のイメージで、私が演出・編集すると、こうなった。という1つの答えがこちら。ぜひご覧あれ。

それでは。また。

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