行進する少年



「左!左!左!そこ!だらだら歩かないよ!」

運動場に担任の声が響く。
運動会の練習は何時間も続き、子どもたちは7回目の開会式をむかえていた。

「全然だめ!もう1回入場するよ!」

子どもたちの元気を吸い取るようにして、担任の熱が入ってゆく。

面倒だ。何でこんなことを。そういう声が周囲から少しずつ浮かび上がってきた。

私もその1人だったが、まじめにやれば終わるという僅かな希望を抱えて、やり直すたびに一生懸命に行進をした。

足並みを揃えるための「左!左!」という声がまた始まった。子どもたちは声に合わせ、地面を左足で踏み鳴らす。ザッザと音が揃いはじめた。

文句を言いながらも、やり直したくない気持ちが子どもたちを一つにしたのだろう。行進の音は規則的に運動場に響いていた。

「はーい!止まろー!」と明るい声。

またか、またやり直すのかと子どもたちの顔から表情が失われたが、続いて

「今のすごいよかったよー!本番も今くらいの行進でいこうね!」と担任が遠くから叫んだ。

思わず笑みがこぼれた。終わった。終わったのだ。

当日は8回も開会式はしないはず。すれば1種目目のかけっこは午後から始まることになり、組対抗リレーはナイター開催になる。

幼かった我々もそれはありえないことは分かっていた。だから、あとは本番の1回を乗り越えればこの左地獄から抜け出せるのだ。

いじめっ子もいじめられっ子も皆同じような表情をしていた。一致団結とは、この状態をいう。辞書の引き方を知る前に、この日我々はそのことを学んだ。

放課後。

皆が担任の文句を言いながら帰っていく中、私だけが呼び止められた。

決して誇らしいことではないが、私は呼び出しを受けるような態度は絶対にとらなかったし、とれなかった。素行の良さは数少ない私の誇れる点であった。

担任は「今日の行進よく頑張っていたね!素晴らしかったよ!脚は高く上がっていて、踏み込むタイミングも完璧!腕があんなに上がってたのはりょうくんだけだったよ!りょうくんの行進は見ていて元気がでるね!本番もその調子で……」

この先もたくさんしゃべりかけられたが、覚えていない。しかし、人生で初めてそして唯一自分を褒めてくれた瞬間だった。

よくどん底の人生などというが、私からするとドラマがある分いいじゃないかと考えてしまう。

いいことも悪いこともない、褒められも貶されもしない、得意も苦手もない。多少できたことがあったかもしれないが、評価がこないからそれにも気づかない。それが私だ。

しかし、あの何度も繰り返された大勢の行進の中で1番に輝いた私の中で「特技:行進」が生まれた。しかし、年を重ねるにつれ、行進を頑張る者はださいと言われ、高校の時には「軍隊を想起させるため」という理由で行進がなくなった。

大学以降は言わずともわかるだろう。

普通に生きていれば行進などしない。

ある体育大学の行進を見た時は感動したが、同じ土俵に立っていない以上、もしかしたら私はこのレベルだったのかもしれないと本気で思う日がある。なんなら、オリンピックで選手たちがゾロゾロと入場する様をみては私の方が絶対にきちんと行進ができると1人で胸を張るのが4年に一度の楽しみですらあった。

その楽しみも今年はない。来年に延期となったが、本当に開催されるかも定かではない。

そして今。いつもと変わらぬ通勤電車の中、表情を失った人たちを横目に私は当時を思い出して、1歩1歩を大事にしながら歩く。この歩みが誰かに元気を与えることを祈って、「左、左」と口ずさみながら。

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