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神を自称する知人に思う

ただの愚痴ですが、書かずにいられなかった話。なげぇです。

神になった元同級生

学生時代の友達とたまにビデオ通話をしているのですが、話のネタとしてある元同級生について10年振りに調べてみたら、Youtubeやブログなどで「神を自称」するようになっていました。その同級生はこれまでも以下のような経歴をネット上で発信していたので、色々話題には事欠かない人物ではあったんですが、「神」になっていたのにはちょっと驚きました。

20年前:
 ・サプリメント、歯ブラシなどのマルチ商法にはまる
15年前:
 ・ビジネスに成功して、悠々自適のホテル暮らし
ここ2,3年:
 ・天才心理学者
 ・流行り病を完治させる機械を開発する
 ・

或る同級生の経歴

その元同級生と私は特別仲が良かったというわけでもないですし、実際卒業以来一度も会っていません。ただ、20年前にはおそらく世界観をある程度共有していたはずの人間が、全く相いれない世界観を持った人になっているというのは私としても結構ショックだったようで、ここ数週間考えこんでしまいました。そこで自分の気持ちを落ち着けるために、ここ数週間考えたことを書き出してみることにしました。

優しい世界のオルタナティブファクト

穏健で多様性に富んだリベラルな社会

映画賞の授与式でパートナーを言葉で侮辱された俳優が、司会のコメディアンを殴ったことが批判されている。それがどんなにひどい言葉であったとしても暴力は肯定されない。世界はどんどん非暴力的になってきている、それはいいことだ。

運動会で横並びのゴールが行われるのは、足の速さが人間の価値を決めるわけではないということを子供に理解させようとしているのではないだろうか。同じく、試験の順位が発表されないのも勉強の出来不出来の関わらず人間には価値があるということの表れなんじゃないかと思っている。世界では多様性が認められるようになっているし、生きること自体の価値も認められてきている。私のように運動も勉強もできなかった人間からすると、これもよいことだ。

人間は科学が苦手

人間は本能的には因果論でしか物事を捉えられない」という話がある。これは、何百万年もの時を因果論で片が付く世界を我々人類が生きてきたからで、世界には複雑系があふれているというのは、ここ数百年で出てきた新しい知見だということを根拠にしている。また、同様に論理的思考も我々人類は本能的に理解できない。よって科学も本能的には理解できない。理解するためには訓練が必要だ。

科学に向く人、向かない人

日本で暮らしていれば、多くの人は9年間の義務教育のなかで多少なりとも論理的思考や科学の訓練をしている。ただ、実際は論理的思考や科学的な思考は大人でも苦手な人が多いという印象を私は持っている。
一昔前であれば、同じ教育を受けたのにもかかわらず出来不出来がある場合は、不出来な人の努力不足だと結論付けられていた。しかし、現代では家庭環境、学校環境、遺伝子などが原因であり、出来不出来は個人の努力如何に関わらないというのが正しい見方だとされている。個人的にはこれは正しいし、万人を救うとされた教育の敗北と言えるんじゃないかと思っている。

同じ教育を受けても、なんなら同じ家庭環境でも、理解度や習熟度に差が出るのであれば、論理的思考や科学的思考への向き不向きが人間には生来あるといえるだろう。

生き辛い現代社会

一部の殊勝な人を除いて、自分が理解できないことを延々と押し付けられるのは苦痛なんじゃないかと思う。私も全く理解できない上に興味がないことを延々と説明されても、寝てしまうか、それが許されないのであれば聞くことを止めて空想の世界で遊ぶことになるだろう。

現代社会は科学の発展に基づいている、そのため世の中には科学があふれている、上記の例と併せて考えると、義務教育期間の条件が悪く科学的思考の訓練ができなかった人や、科学に向かない人にとってこの社会が生き辛いというのは理解できることなのではないだろうか。

科学的思考の敗北

現在でもそうかもしれないけれど、ここから先の思いやりにあふれたリベラルな社会では、本人に非がない以上、科学的思考に向いていない人をその点で責め立てることはできなくなる

また、他人にストレスを過度に与える行為は行われるべきではないという考えはこれから主流になるため、科学的思考に向いていない人に科学の枠組みを強制することは「サイハラ(サイエンス・ハラスメント)」などと呼ばれて忌避されるようになるのではないだろうか。

先人たちの英知の結晶である科学的思考は、こういった考えによって寛容なリベラル社会に敗北するんじゃないかと私は考えている。

これからの世界

現代は、誰しもが発信できる社会になったと言われている。(このNoteもそうですね)そのうえで、非科学的見方を否定することが出来ず、科学的思考に向いていない一定数がそれをフォローすると、科学的な世界の見方はメジャーであるものの絶対ではなくなり、多くの人は科学的世界論を信奉するものの、人によっては自分が心地のよい別の理論を信奉する。「世界観を選択できる社会」がやってくるのではないだろうか。

この萌芽が「フラットアース」や「インテリジェント・デザイン論」なんかの、現代科学と相いれない思想なんじゃないかと私は思っている。

違う世界を生きる人と共生する

世界観というのは自分を形作っているベースの部分なので、全く違う世界観を生きている人を見るとギョッとする。実際この記事を書くために「フラット・アース」や、「インテリジェント・デザイン論」、「シュミレーション仮説」について調べてみたが、足元が揺るがされるような気持ち悪さと、ここまでベースが違えば世界について対話することは難しいだろうと感じた。

ただ、個人的には「世界観を選択できる社会」をあまり心配はしていない、何故なら、大人になるとリアルな生活で世界観を開陳しあう機会なんてないし、あったとしても相手を変えようとする人は少ないだろう。(現在の政治的な志向と同じような感じになるのではないだろうか。みんな違う志向の人がいても基本的には変えようとはしないでしょ?)

ネットでは(悪名高い)フィルタリングバブルが我々を守ってくれるので、進んで検索でもしない限り別の世界観を見ることはできないだろう。また、フィルタリングバブルなんてなくても、世界観や政治的思想、宗教などに併せてSNSで棲み分けがされることも予想される。実際に米国では前大統領のトランプ氏が「Truth Social」なんて言うSNSを立ち上げたりしているし。

まとめ

科学は万人受けしないので敗北し、「世界観を選択できる社会」が来るが、大きな変化はないんじゃないかというのが今日のお話。

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