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「和同開珎」埼玉ゆかりの日本最古の流通貨幣

708年に埼玉県の秩父地方において日本で初めての自然銅が発見されて朝廷に献上されました。それを記念して年号が「和銅」と改められ、貨幣「和同開珎」が発行されました。

続日本紀には以下のような記述があります。

「和銅元年春正月乙巳、武蔵国秩父郡、和銅を献ず。詔して日く、『…東方武蔵国に自然に作成る和銅出でたりと奏して献れり』と。故慶雲五年を改めて和銅元年として御世の年号と定め賜う。…五月壬寅、始て銀銭を行う。…八月己巳始て銅銭を行う」

この貨幣について、私は「わどうかいほう」という名前で、日本最初の貨幣と習った記憶があります。

「わどうかいほう」なのか「わどうかいちん」なのかは古くから議論があるらしく、それぞれ根拠も挙げられているようです。しかし現在では一般に「わどうかいちん」と呼ばれることが多いようです。

「かいちん」説は、和同開珎の「珎」は、「珍」の異体字という立場に立っていて音としては当然「ちん」となると主張しています。「珎」は「貴重、たやすく得られない、滅多にない」という意味ですね。

「かいほう」説は、当時の貨幣の銭文には殆ど寳(ほう)が用いられていることから、寳に含まれる珎だから和同開珎の珎も他の銭文の寳と同じで、珎を寳の略字と考えているようです。「寳」だとすると「大切にする貴重なもの。金銀、珠玉の類」という意味ですね。

日本最初の貨幣という件ですが、これは現在、「富本銭」ということになっていて、683年ごろ作られたと考えられているようです。ただし広く貨幣として流通していたかどうかは議論があるようです。

銅は一般的に酸化物や硫化物として存在し,自然銅として存在することはまれです。秩父地域の三波川帯からは自然銅が産出することが知られていますが、産出量は少なくその分布や産状についてはほとんど明らかになっていなません。

歴史上自然銅の産出地として広く知られているのは秩父市黒谷で,和銅採掘遺跡調査委員会(1993)によって歴史学・考古学・民俗学・地質学などの観点から総合調査が行われています。黒谷における自然銅の成因について様々な見解があるものの(堀口 2009;小幡 2013 など),実際に自然銅の産出は確認されていません。

和銅沢左岸の斜面が埼玉県指定旧跡「和銅採掘遺跡」(1922年3 月29日史蹟指定、1961年9月1日旧に変更) とされ、「和銅露天掘り跡」と呼ばれています。しかし,「和銅露天掘り跡」に見られるのはチャートと砂岩で、溝状の地形は秩父盆地東縁の地質境界である出牛一黒谷断層の破砕帯です (小幡 2013)。

残念ながら和銅採掘遺跡では自然銅が算出した証拠は見つけられていませんが、秩父周辺では下図のように銅鉱物の産出地がいくつもあります。

前出の小幡 (2013) では以下のように推察しています。

和銅遺跡の「和銅露天掘り跡」に見られる溝状の地形は、出牛一黒谷断層の破砕帯であって、ここから自然銅が大量に産出したとは考えがたい。
しかし、この断層の運動にともない、三波川帯の結晶片岩類に胚胎された幻の層状含銅硫化 鉄鉱床が崩壊を繰り返して、化学的に自然銅が沈殿し、和銅沢の谷底に蓄積していった。こう考えれば、「和銅露天掘りの跡」が和銅採掘地であってもおかしくはない。
ただし、それは斜面ではなく、河床だったのである。そして、住民たちの協力によって、短期間ですべてが掘り尽くされたのであろう。残念ながら、今の河床に銅鉱床の痕跡は残され ていない。

一方、長瀞地域には自然銅の産出が確認されており、坑道が存在するとともに,自然銅の標本も数多く存在します。長瀞の銅鉱物について調査した井上 (2017) によれば、自然銅が産出するのは主に赤鉄鉱石英片岩 (もしくは塩基性片岩との互層)中で、自然銅は、母岩およびその中の石英脈(一部方解石脈)中に存在するとのことです。

このようなことから、和銅の産出地は秩父地域一帯の広い地域との考えもあるようです。

和同開珎という歴史的な貨幣の発行が埼玉における自然銅の発見と関連しているという事実と、秩父地域の自然銅の成因や産状のなぞがロマンを掻き立てます。

[参照]
井上素子、2017. 埼玉県長瀞地域における自然銅の分布・産状および採鉱記録、埼玉県立自然の博物館研究報告、No. 11,17 -34.
小幡喜一、2013.秩父市黒谷の和銅露天掘り跡、地学教育と科学運動、70:63-68

秩父市和銅保勝会ホームページ:和銅遺跡並びにこれに関連する文化財および名勝地の保護顕彰に努める和銅保勝会のホームページです。


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