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『The Days After 3.11』 より距離の近い、存在へ。震災が導いた音楽とご縁。:牛来美佳さん#4

群馬県太田市に住み始めたのは、震災から2ヶ月後、2011年5月末。
牛来さんは5歳の娘をもつ母子家庭だった。
両親のこともあり、福島からあまり離れていないところを探す中、片道2時間の距離にある太田市の話を知り合いからきいて決めたそうだ。地元のことを聞くと、温かく応援してくれたり、プライベートでも支えてくれたりと、もう第二のふるさとのようだと話す。

「ここで出会った方やいまお繋がりがある方って、 音楽をしていなければ確実に出会えてない人がほとんどです。そういう風に思うと、音楽を通して皆さんと出会わせていただいている。そう感じています。私もなるべく距離が近いスタイルで音楽をしているので、 街中で声を掛けられたり、私も見つけたら声かけたり。すごく大好きな場所です。」

2019年の6月に「道の駅太田」の副駅長に就任した。2024年からは移動販売にも携わっている。
いまでは、道の駅の副駅長、歌手、そしていち住民としての顔を持つ。

「音楽の活動を最優先で構わないなら、可能な時間で道の駅の方にもとお話をいただきました。もうこれ以上ない、ありがたい状況で関わらせていただいてます。移動販売は、配達する地域は決まっていますが、お年寄りが多いところなので、そういった方々の安全確認も含めています。近くでお買い物ができるように、そして安全を確認するためにも始まりました。」

牛来さんに憧れの人はいるのかを尋ねてみると、「わたし、この質問はいつもパッと出てこないんですよね。」
そう朗らかに笑いながらも、あるご夫婦について話してくれた。

"群馬の父母"と呼んでいる松山夫妻という、家族ぐるみで応援してくださる方がいるそうだ。70半ばの群馬の母が、近所の1人暮らしのお年寄りを病院の送り迎えしたり、スーパーに連れて行ったりしているという。

「老老介護みたいだねなんて、みんな言っているんですけれども(笑)
人のために、時間だけじゃなくて心で行動できることって、本当に素晴らしいことだなと思っていて。ここで出会って"群馬の父母"と呼んでいる松山夫妻のことをものすごく尊敬してますし、私も2人のような年の取り方をしたいなと思います。」

お日さまに照らされたみたいに心がじんわり温かい。副駅長や歌手として、というより、いつもありのままの"牛来美佳"として、一人ひとりに向き合っているのだろう。そう感じた。

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福島県双葉郡浪江町出身。
2011.3.11に発生した東日本大震災により被災。
居住地の浪江町が原発事故で全町民強制避難指示となり、 母子家庭として育てている当時5歳の娘と2人で最終的に辿り着いた群馬県にて避難生活を送る。震災当時は福島第一原子力内で 事務員として勤務。
本当になんともなかった当たり前の日常がなくなってしまった経験の中で、 伝えるべきことを伝えたい、伝えるための歌を歌いたいと決心し、幼少期に夢見ていたシンガーソングライターとしてデビュー。

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