しずや和尚の半生をめっちゃ語ってみた
とりあえずいくつかの時代に分けて自己紹介します。
幼少期~小学校4年
とにかく元気で常にリーダーシップを取るような人間であった。賢いけど問題児で、僕だけ先生の横でみんなの方を向いて特別席に座らされるような時代もあった。でも天真爛漫に過ごしていた。
小学校4年~中学
4年生で転校。ちょうどその頃から学習塾に通い始める。県内有数のスパルタ塾で、一種の洗脳を受けた感じになる。まだ当時は塾に通っている子は多くはなかった。
なんとか転校しても学校にはなじめ、またリーダーシップを取り始めるが、6年生で男子学生から無視されるといういじめに遭う。中学受験で勉強ばかりしていて鼻持ちならなかったのかもしれまい。結局誰にも相談せず卒業。最後の通知簿は全科目オール5だったが、音楽まで5だったのは謎。
中学時代・高校時代
中学受験は第一志望の東大寺学園(奈良県で一番難しい学校)には不合格で、滑り止めで受けた奈良学園(当時は奈良県で2番目の難しい学校)に合格。6年生の男子校に通うことになる。
最初の中間試験の順位が14番で、その頃の大学の合格実績と比べると京大が合格圏内であることにおののく。
小学校のいじめや男ばかりの生活。受験戦争のプレッシャー。厳しい親のしつけなど、「ザ・昭和」な学生生活を送る。
高校では生徒会の副会長もする。まだスマホもなく、漫画と読書と深夜ラジオの合間に勉強をしていた。深夜ラジオではその後の人生を大きく変える人との出会いが起きる。
浪人時代
高3の京大模試でものすごくいい成績をとったために油断したのか、ただの実力不足か、私大には合格するものの京大は不合格で浪人生活を送る。自分も受験生のくせに、同じ予備校の受験生の家庭教師を放課後予備校の食堂でやっていた。
予備校の季刊誌でトランペッターの近藤等則のインタビューをふと見る。それが刺激的で、「自分もこんな世界を自分の実力で渡り歩けるような人になりたい」と思い、そのためにもなんとかして京大に行きたいと思う。(近藤さんも京大出身)
浪人の時は私大は受験せずに、京大の理学部と薬学部、そして、大阪の府立大を受験。理学部は残念ながら不合格だったが薬学部に合格する。薬学部を選んだ理由は、理系の中では、薬学部と農学部の偏差値が低く、当時学びたい分野は生物物理学だったので、薬学部の方が近いと思って受験した。
京大薬学部時代
入学式の直前にお坊さんだった祖父が亡くなる。父親は昔からお寺の手伝いはしていたが、僕はそんな受験生活を送っていたのでまったくお坊さんのお手伝いなどしたことはなかった。唯一浪人開けの春の彼岸に祖父からお経の唱え方を習ったがそれが最初で最後だった。
大学の入学式で「今年度の入学者数3,000人」というのを知って、「そんなにいっぱい京大生おるのか」と思って入学式に落胆する。
なんだかすっかり学校に行く気がなくなって、親には「学校に行く」といいながら映画館に入り浸る毎日が始まる。
薬学部の方も「昔から化学大好き!」みたいな真面目な理系人間が多く、「こんなに楽しく学んでいる人たちと一生僕は頑張って競争しないといけないのか」と思うと自信をなくし、更に痔の薬が痔を治さずに、患部の周りの神経を麻痺させるだけなのを知って、薬自体にも興味がなくなる。
2回生でミニシアターのスタッフになり、芸大の人たちとよく遊ぶようになる。ちょうどパソコンを買ってもらえたので、映画館のチラシを作ったりしていた。
そしたら、それが映画館のオーナーの目にとまり、オーナーの別会社のコンピューターのアルバイトを誘われる。するとそこに中高時代に深夜ラジオでめちゃくちゃ聞いていたタレントの越前屋俵太さんがいた。
そこから、その俵太さんの付き人と、ファンクラブの会報誌の編集長、テレビ番組のADのアルバイトを始める。
大学は、そっちのけになり、卒業だけが目標になる。
その間にお坊さんの資格も取り、なんとなく跡を継ぐことも宣言する。
後に俵太さんのところがブラックすぎて逃げ出すことになる笑
京大教育学部時代
俵太さんのところを逃げ出したときに一緒にバイトをしていた専門学校の男の子と一緒に住み始める。ちょっとしたお金のブラック企業か、全くお金にならなくても自分たちの作りたいものを作った方がいいよなとなって何をするでもなく一緒に暮らし始める。
もう少し学生を続けたいと思って、大学の編入試験を受けることにした。1年間聴講生をしてから編入試験に無事に合格する。
ちょうどその時インターネットのようなテレビ電話の仕組みを開発した社長さんと知り合い、猛烈アタックしたところ開発のメンバーに加えてもらうが、報酬が当時の自分たちには多すぎて上手く使えずに首になる。
ちょうどその頃はベンチャーバブルで、いろいろ書くと話が長くなるので省略するが、そこから27歳くらいまで大学生をしながらいろんなベンチャー企業を渡り歩く生活をする。やっとインターネットが登場し始めた頃で、ホームページの制作やプログラミングとかIT系のことをいろいろやって生活をしていた。
お坊さんの住職にも25歳で就任。先輩に恵まれてお坊さんの人脈も増えてくるが、お坊さんで生きるかITで生きるか、その両方をするかで迷ってもいた。
2度目の大学は、やっと自分の学びたいことを学べた気がしたが、大学の研究は長い歴史の積み重ねであることを知り、そんなことより今の最先端を追いかけたい僕には似合わないと思って研究者の道は諦めることにした。
起業時代
大学からずーっと波瀾万丈の人生を送ってきて、いろんな人から行く末を心配されるが自分でもどう歩んでいけばいい分からなくなっていた。
そんなときに当時のメンターの社長さんが僕に当時の僕にとってはとても大きな仕事(女子大の50周年のCD-ROM)を任せてくれた。この仕事がうまく行かなければもうITの世界は向いてなかったとして足を洗ってお坊さんだけをしようと思って取り組んだところ無事に完成することが出来る。
ちょうどそのころ疎遠になっていた俵太さんと再会する。
27歳の僕に「自分も27歳で会社始めたから」と株式会社をひとつ譲ってもらう。
そんなことで27歳で株式会社の社長になった。
29歳で結婚もする。
子育てと会社経営
そんな中俵太さんが芸能活動を休止する。いろんな意味でスポンサーをしてくれていたのだが、まあ、後ろ盾をなくす。
今までは間借りだったが初めて事務所も借り、再発起。ただちょうどインターネットの時流に乗れたので、下請け会社から企画会社に転身し、サブスクのサイト運営を請け負えたので、最終的にはビルの2フロアを借り、社員も6人くらいの会社まで成長する。
しかし、その時期と子どもの出産育児の時期と重なって非常に忙しい毎日を送っていた。
そんなことで会社のことが手薄になっているときに役員の不正が起きる。
その時期と自分がお寺に戻る時期も重なったので、会社の方は整理しそれぞれの社員には転職してもらって、1人社長の会社にコンパクト化する。
美容室の経営
奥さんが元々美容師だったというのもあって、子育てが落ち着いたときに自然派美容室を始める。子育てを機会に、健康な生活にも目覚め、そういうお母さん達のコミュニティとして活況ではあったが、経営的にはITの方からお金を回しているのが現状だった。
奈良に移住(30代後半)
ちょうど長女が小学生になるときに18年過ごした京都から奈良の田舎に移住。もともとお寺のあった宇陀市で僕は生まれ育っていないので、Uターンというよりは移住であった。
東日本大震災
奈良に移ってからしばらくして東日本大震災大震災が発生。まだ京都の事務所は借りたままだったので、ふんばろう東日本プロジェクトの京都支部の事務所として提供する。(新井さんは、この時の代表の西條さんとの縁で知る。)僕自身も京都支部の副代表として支援活動をする。
また、一方奈良でもなにか支援活動ができないかということで、地元の移住者と「やまとのだいち」というオーガニックな保養の受入活動をする。
地域に根ざす10年(40代)
奈良に移住してからの10年間は企業活動というより地域に根ざす活動をいろいろ行った。
地元のシルバー人材センターの監事
地元企業の社外役員
地域型学生インターンの受入
「おてらじお」という移住者向け音声配信
教育旅行の修学生受入
アートイベントの協賛
コンサート、落語会の開催
お寺に美容室をオープン
薬草のイベントの共催
お寺での企業研修の受入
お坊さんという肩書きも上手に利用しながら、自分が楽しく暮らせる田舎暮らしを目指して様々な活動を行った。
京都にも、ワイズメンズクラブという奉仕クラブに入会した関係で、週1くらいで京都には通うことになる。
コロナ禍の停滞
コロナ禍は多分に漏れず、停滞した日々を送っていた。
ただこの間に、カウンセリングのオンラインの養成講座を受けたりオンラインコミュニティに参加したりしてオンラインの生活を送る。
オンラインコミュニティでは、顧問として迎えられて、もしかしたら日本で初のオンライン顧問僧侶だったかもしれない。
50代 現在
現在のやっていることは
お寺の住職
アンジェリカルート株式会社 代表取締役 (Web制作、印刷全般、DX支援、システム開発、美容室の運営など26年経営)
ゆたかな宇陀 会長 https://uda.today/ 関係人口を増やすための任意団体
奈良芸術短期大学 非常勤講師 (情報機器の操作、情報処理、情報コミュニケーション 担当)
シルバー人材センター 監事
民泊の経営
宇陀の薬草を全国に広める会 役員
など
あとは、オンラインで
複業の寺子屋というコミュニティを主宰していて、今はメンバーが54名。
最近、noteで「しずや和尚のなんでも相談室」を始める。https://note.com/nandemosoudan/
ボランティアでは、京都ウイングワイズメンズクラブに所属。
趣味は雅楽で、時々京都の神社の祭典で篳篥を吹いている。