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25年経っても変わらない恩師と、劇的に変化した韓国語の立ち位置

日本に一時帰国していました。今回楽しみにしていたことは、学生時代の恩師にお会いできることでした。私は学部を二回経験し、一回目は美大、二回目は夜学(教育学)で、夜学の時の恩師は第二外国語の韓国語の先生、チョ・ヒチョル先生でした。


軽い気持ちで選んだ韓国語

韓国語を選んだのは軽い気持ちでした。ヨーロッパの教育を学ぶため(特にヴァルドルフ)ドイツ語を最初の1年勉強しましたが、どうしても先生が合わず、それでも英語でない外国語を勉強することで世界が広がる感覚は残りました。
それで、韓国語は日本語と文法が同じだよとどこからか聞き、そんな言語が世界にあるのかと驚き、専攻とは全く関係ない韓国語を2年目から履修してみたのでした。

一番人気のなかった韓国語

その当時(1999年頃)まだK-Popどころか日本に韓ドラさえ来ていませんでした。韓国の日本文化解禁直後で、韓国と関係するには政治の話から始めないといけないような雰囲気さえあった頃です。
第二外国語は必修ではなく、やりたい人だけがドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語・韓国語の中から選択するものでした。そもそも第二外国語を履修する人が少ない中で、さらに当時は一番人気がなかったのが韓国語でした。

しかし、ヒチョル先生の韓国語クラスに参加してみると、それはそれは本当に楽しかったです。メンバーは少なく、クラスは初級×2クラスがそれぞれ10人弱、中級クラスは3人でした。上級クラスは私は受けることができませんでしたが、履修者1人だったそうです。

語学=背景文化を学ぶこと

先生は日本人学生にどうやったら韓国文化に興味を持ってくれるかと毎回試行錯誤し、(当時は普通には見ることができなかった)韓国のバラエティ・ニュース・音楽番組の録画を視聴して解説してくれたり、韓国人・在日韓国人のゲストを呼んでくれたり、激音と濃音の発音練習でティッシュを口の前にぶら下げて息を出したり止めたり、ハングル体操したり、ハッピーバースデーの韓国語版を歌ったりしました。

学期末には韓国料理店で打ち上げをしたり、先生宅にお邪魔して奥様の美味しい韓国手料理を頂いたり、日本にある韓国ゆかりの場所(高麗神社)を訪れたりし、最後にはスピーチコンテストに出場しました。特段成績が良くない私が、受講した3クラス全てでA+の成績を取り、自分でも外国語はできるようになるんだという自信が生まれたクラスでした。

今では韓国語は、韓国人の友人に挨拶したり韓国スーパーのキムマートで商品名を読む程度になってしまいました(シェムリアップのキムマートのキムさん、日本語を話すのです)。

韓国語はかなり忘れてしまいましたが、ベトナム語・クメール語に向き合おうという気持ちになったのも、元を辿れば韓国語の恩師ヒチョル先生です。英語と比べて地理的に近いアジア言語は、文法も語彙も発想も日本語に近いのだ、という当たり前のことを実感したのでした。

そして自信がなかった英語も、正しい方法で勉強すればできるようになるのかも?と思ったのもこの時でした。

変わらない恩師と、劇的な変化を遂げた韓国語ポジション

先生の連絡先を聞いたのは、母の友人の韓国語の先生がもしかすると私が習った先生ではないかと気付いたからでした。定年退職された先生はその後も私の地元で月2回、生徒たちの要望で公開講座として教えているとのことでした。

講座後には納涼会との名目で飲み会をするとのことで、そこへお邪魔させていただきました。久しぶりにお会いしたヒチョル先生は、お年は召したものの笑顔と力強さと生徒からの絶大な信頼は変わっていませんでした。

人気のない外国語 = 変わった人が集まる

先生はK-popや韓ドラの熱烈なファンの生徒さんに囲まれながら、チラッと「昔の韓国語学習者は本当に変わった人が多かったですね」と懐かしんでいらっしゃいました。

夜学自体が変わったバックグラウンドを持つ人が多かったですが、その中でも2000年前後の韓国語クラスの数少ない履修者は、ネタの宝庫のようでした。

韓国一周旅行した人、カナダに留学して韓国人の彼女ができて国際長距離恋愛中の人、留守番電話の受信応答に「ヨボセヨ〜」と入れて誰からも電話がかかってこなくなったという人…

当時の韓国語クラスの受講生は、今では韓国をはじめ色々な国に住んでいますよ、と、同級生がベルギーで活躍しているという新聞記事を見せて下さいました。全く知りませんでした。

受講者が数十人から千人へ

学生時代、「こんなに面白い授業なのにどうして履修者が少ないのだろう」と不思議でなりませんでした。

と、思いきや、時代の後押しもあってあっという間にヒチョル先生は人気の先生になり、NHKのラジオでもテレビでもレギュラー講師となり、先生にお会いする直前に訪れた書店では「その他の外国語」の1/3のスペースは韓国語で、その中で一番多かったのがヒチョル先生の著作でした。
私は10年以上日本を離れていたために、ここまでの日本での韓国語の立ち位置の変化と先生の躍進を知りませんでした。

先生にそのことを伝えると、定年退職直前に受け持ったクラスは、なんと350人のクラスが3クラス(=千人以上)だったとのことです。そして、2010年頃を境にして韓国語を学ぶ人が「変わった日本人」から「普通の日本人」になったとのことでした。

先生自身も「人がやらないことをやる」

先生はソウルの有名な外国語大学の大学院での日本語学科一期生だったそうです。それまでは韓国での日本語とは(植民地時代の義務教育で)自然に覚えるもので、外国語という意識はなく、ましてや崇高な大学や大学院で研究するようなものではないという雰囲気があった、とは私の学生時代に先生から聞いていました。

きっかけは何でも良いのだ

そこで、今回先生に日本語を専攻したきっかけを聞くと「そんなに深い意味はなかった。漢字が得意だったことと、人がやらないことをやりたかった」とのことで、私と似た感覚を持っていたことがわかりました。

その後先生は、韓国の大学で日本語の講師となり、大学の研究で日本に滞在したところ日本が気に入ってしまったそうです。そこから前例がほとんどない「韓国生まれの韓国人として日本の大学で韓国語を教える」というキャリアを手探りで模索し、大躍進につながったとのことでした。

「ベトナムとカンボジアに住んだことのある日本人というのはそんなに多くありませんよ。ぜひ、2カ国と日本とを繋ぐ人になってください」と別れ際に先生はおっしゃっていました。
ベトナム・カンボジアに住んでいる理由は国際協力的なものでは全くないのですが、それでも外国に住む日本人として存在するだけでなんらかの影響を与えているのかもしれないな、と思い始めました。

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