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フィアットとソ連 ヒッピーにビートル

戦後まもない頃の欧州者や共産圏のクルマを巡る事柄を書いてみたのだが、急に通信環境が不全となり、それのみならず、ITなんてものはまことにアホらしいもので、書いた文章がネット世界にしまわれてしまい、取り出すことができない羽目になった。
陰鬱な状況の中、スマホ4G(無線工学を勉強しているんだけれど、5Gはさまざまな面で混乱を及ぼすと思うので、新規スマホは今手持ちのものが最後になると思う。余談であった)で簡潔に書いてみることにしよう。

【全体主義と反文明とは相性がいい? ビートル】

kdFワーゲン、すなわち、ビートルとして親しまれているがご承知おきのとおり、ドイツ第三帝国の中、構想された国民車である。

ヒトラーという人物はドイツ国民への福利厚生を通じて帝国への臣従を高めようとしていた節もあるし、ある種の理想主義者だったのかもしれない。独裁者と理想主義者は紙一重である。

kdFは簡潔にいえば、ドイツ国民の積み立て貯金によって、国民全てに保養所を与え、また、それぞれの家庭に自動車を与えようという構想を実現させるための機関でもあった。
帝国臣民は毎週貯金を積み立てて、保養所に行くことを夢見て、そしていつかはクルマで家族旅行をすることを夢見た。
貯蓄金額は等分してみれば、決して高いものではなかった。
ゆえに、もしも、ヒトラーが戦争に踏み出さなければ、ドイツ第三帝国は地上の楽園になっていた可能性もある。

ところで、ビートルは戦後になって、ヒッピーという反文明の輩が愛好してきた。皮肉なことであるが、ヒトラー自体が自然愛好家としての側面を持っていたから、両者は似ていなくもない。
オーストリアの画家崩れは可能性として、ヒッピーになっていた可能性もあった。あそこまで長髪にできたかわからないし、フリーセックスに溺れることは、彼自身の性格からして出来なかったであろうが。

エンジニアリングとしても秀逸なビートル(これは英語での命名であるが、蔑称が入っているように思える)は、やがて、356ポルシェとなったり、まさしく大衆車として活躍することになるのだが、享受を受けたのは西ドイツ国民だけであった。

戦後、イギリスがワーゲンの工場を接収したが、買い取り手もなく、(たしか)ザクセン州に返還されたわけだが、今に至るフォルクスワーゲンの興隆があるのも、こうした流れのお陰ともいえる。
ワーゲンより歴史の古いオペルは遅れを取り戻すのにかなり時間がかかってしまった。

【紙パルプの優等生 トラバント】

冷戦構造の中、東ドイツは東側の優等生として躍進するが、ことに自動車産業については両者の差は隔絶していたといって良い。
有名なトラバントはおそらく鋼材をケチるためにFRPボディにしたと思われるし、政権末期になると、本当に紙パルプを使用するようになり、とても優等生のクルマとは思えないものであったが、今、非常に人気があるのだという。

しかし、ベルリンの壁崩壊のときに東ベルリンから大挙してきたトラバントの群れをまだ忘れてはなるまい。東ドイツでもツテのあるものや警察車両となると、トラバントよりも高性能なクルマに乗っていた。政権はクルマを見るだけで、その国民の階級を判別していたのだ。
秘密警察が跋扈し、非公式協力者も国民の五人に一人はいた社会である。日本もそうならないとは限らないが、それでもトラビーは東ドイツ国民の憧れではあったのだろう。

【フィアット124とソ連】

東側の親分であったソ連もまた自動車産業においては大きく遅れていて、西側にも援助を求めていた。
手を挙げたのが、イタリアのフィアットで、ここにおいて、124のライセンス生産がラーダにて始まった。当時はまさに冷戦であり、フィアットへの脅迫もすごかった。
だが、フィアットがこけるとイタリアがこけると言われるほどの影響を持っており、結局はイタリアの国策もあり、ソ連への技術の流れは継続された。
そして、ソ連が崩壊したあとも、21世紀を迎えてもまだ生産されていたのである。

それにしても、124というクルマも息が長い。輸出先も多岐に渡っているし、直近では、ロードスターの兄弟者として、124スパイダーというクルマもあった。個人的にはチンクよりも124がイタリア自動車の中核を担ったとも考えているが、どうであろう。ちなみに、英語圏では、ワン・ツー・フォーという。

【自由過ぎるフランス】

フランスが自由の国というのはあながち間違えていないと思われる。戦後間も無くは運転免許なしにクルマに乗れたし、むろん、飲酒運転は許容された。

戦後の欧州は貧しくて、小型のマイクロカーが発達したが、真面目なイギリスが規制を設けたため、姿勢の不安定な三輪のマイクロカーばかりを輩出していたが(イギリスの自動車産業凋落の一因と思われる)、こちらにはそんな規制などない。

しかしながら、大陸合理主義の面目は有しており、有名な話ではあるが、「鶏の卵を割らさない」ような足が求められた。硬く締め上げた足など不要で、そうしたフランス的状況の中で生まれた傑作が、シトロエン2CVだったといっても良いだろう。

ちなみに、2CVやルノーキャトルは軍用車としても活用されていたが、果たして活躍していたのかどうかは疑問である。言っちゃ悪いけれど。

【パクスアメリカーナ】

総じて言えば、アメリカへの憧れが欧州においても強かったのだと思う。50年代のキャデラックなどを見ると、なにやら別世界のクルマのように見える。
我が国においてもアメ車への憧れが強くあったのだが、アメリカ一強の兆しが緩むにつれて、欧州車崇拝が強くなってくる。
欧州車も別段、アメ車ルックを目指さなくなったし(メルセデスの変遷を見よ)、大雑把にいえば、それが戦後の西側の自動車文化の特徴であった。
共産圏については唯我独尊の感があるが、まだまだ、政治の時代だったということであろう。
しかし、ソ連でさえ、フィアットの力を喜んで受けているのだ。
124のような実用的ルックでないモデルが共産圏に輸出されていたら、どうなっていたであろう?
ワーゲンがヒッピーたちに受け入れられたようになったのだろうか?
興味のある点ではある。
今後も自動車史を多方面から眺めてみたい。

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