人生のキッチンとトイレ

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〇死が見えなくなった時代
『死が見えなくなったことで 
 生のエネルギーは空回りし、全体性を失った』
稲葉俊郎さんという
東大病院で循環器内科医師を
されている方が『コンテマガジン』という
雑誌のインタビュー記事の中で
言われていた言葉が心に残った。

「死が見えなくなった」とはどんなことだろう?
みなさんは誰か人の死に立ち会ったことがあるでしょうか。
私が始めて人の死に身近に触れたのは
祖父が亡くなったときでした。
中学生の時だったと思います。
それまで身近で人の死に触れることはありませんでした。
それでも祖父の容態が悪化してからは
病院に呼ばれることは無く、臨終には立ち会わせてもらえませんでした。
子供にはショックが大きいだろうとの気遣いだったのかも知れません。

コロナウイルスの死者が世界で何万人と報道されても、
それはテレビの向こうのことで、なかなか実感がともないません。
自然災害で多くの犠牲者が出ても、
ありのままがお茶の間に届くことはありません。
SNSやテレビドラマなので
「死」について話題にされることがあっても
あくまでフィクションで、
自分の問題として向き合うことは少ないのではないでしょうか。
むしろ本当の「死」からは遠ざかっているのかも知れません。

〇生のエネルギーが全体を失った

生は「生」だけであるわけではなく
「死」と2つで1つ、1つで2つの関係といわれます。
紙の裏表のような関係です。
「キッチン」と「トイレ」の関係にも譬えられます。
「台所」は家族が集まる、団らんの明るい場所でしょう。
美味しい料理を囲んで、会話に花が咲きます。
一方「トイレ」は昔の「かわや」
のようなものを思い浮かべてもらいたいです。
思い浮かべるといっても、「かわや」を見たことがないですね。
わたしもありません。
今で言えば野外の仮設トイレに近いものでしょうか。
昔のかわやは家の離れにポツンとあり、
夜は暗くて寂しい、一人一人ゆく場所でした。
くさいし汚いし、出来るだけ近寄りたくないところです。
さてそこでマイホームを建てるとき、
私は台所は好き、便所は嫌いという理由で、
キッチンはドイツ製のシステムキッチンにして、
便所を作らなかったどうなると思いますか? 想像してみて下さい。
新築パーティーに気の置けない友人を招待し、
腕によりをかけた料理をふるまいます。
主人のあたながお客さんにスピーチします。
「今日はみんな集まってくれてありがとう!
こだわりの料理とワインを楽しんでね。
 でも家にお手洗いはないから、
 必要なときは1キロ先の公園までいってね」
ドヨドヨドヨ...
台所で楽しく飲んだり食べたり出来るのは、
いつでも安心していけるトイレが用意されていてこそでしょう。

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台所は「生」便所は「死」です。
どんな人も生まれたなら必ず死んでいかねばなりません。
平均寿命が100歳になっても、
死ななくなるのではありません。
何かのことで吐いた息が吸えなければ、
吸った息が吐き出せなければ
その時に「生」から「死」へ変わります。
吸う息吐く息に生と死がふれあっているといえるでしょう。
「死」を考えないように遠ざけていては、
「生」を考えることはできません。
便所の用意がなければ、
台所で食事が楽しめないように、
「死」への備えがなければ、
いまの「生」を心から明るくすることは出来ないでしょう。
生のエネルギーが空回りするというのは、
死を見ないようにして生きることだけを考えても、
のれんに腕押しで手応えの無い、ふわふわと外界の事象に流されるだけの
生になってしまう、ということでしょう。
「就職や結婚はどうする」
「首都圏に地震が来たらどうしよう」
「ながい老後をどう生きる」
みんな未来に備えて安心を得たいと思います。
誰もがも確実に迎える未来についても考えてみてはどうでしょう?

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