パリ五輪開会式に見る、無意識のうちにオリンピックに求めていたもの
前置きを長くしてもしょうがないので本題から先に言いますが、
荒れてますねえ。
東京五輪のときもわりと賛否両論というか、否定的意見をよく目にしたものですが。パリはどうにも規模がひとつ違うように思えます。
で、どうしてこうなったのか。
というのを、既出の情報から精査するのは日頃から真面目に分析されている方にお任せします。このnoteはあくまで個人的な感想です。
というわけで話していきます。
■ ショーは100点、しかし……
これが今回、私がパリ五輪開会式を見て思ったことです。
さて、私は今回の開会式をリアルタイムではなく遅れて見ました。NHK+で見られたので、開会式から一夜明けてすぐでしたね。たまたま起きて見ていた親からは「開会式にジダンがいた!」という話だけは聞いていました。
で、ざっと通しで見たところ。
すごいな、これは。
あらゆる面において秀でた演出がたくさんあったように思えます。演出家でもなんでもないので実際の評価は分かりませんが、ともかく見ていて圧倒されたに尽きる。次々と事が起こるので目が離せませんでした。
ただ、一通り見終わって冷静になると、どうにも「いや、でもこれは……」と思うところばかり。
確かに、ショーとしては派手で目を引く。
だが、これは本当にオリンピックの開会式なのだろうか?
という感情が、時間とともに膨らんでいくのでした。
■ 道徳0点
時間とともに、世界では開会式の批判の声が出始めました。まさかキリスト教団体からも抗議の声が出るとは。あの表現、最初見たときは最後の晩餐のパロディだとは全く気づいてなくて「ああ、お得意のポリコレか」ぐらいにしか思っていなかったので、もっとヤバい背景があったのにたまげました。あと、オーストリア(ハプスブルク家)にも喧嘩売ったりだとか、もう、うわぁ……という感じ。
とはいえ上記のことは後から知ったことであり、最初に見たときに(ショー全体に圧倒されたことを除いて)思ったのは、
『なんかスポーツが中心にねぇな』
というものです。
まず初手で引っかかったのが、選手団を船で流して紹介するところ。
アナウンサーから「7回に分けて行われます」と言われたとき「なんで?」と思いました。冷静になって考えると、船で絶え間なく運び続けると発着場が船と人で混雑するから事故を避けるためなんだろうなーということに気づくのですが。最初見たとき私はこう思いました。
「え?聖火リレーの演出のために選手入場を分割したの?」
実際、どういう理屈で選手入場が分割されたのかは私には分かりません。ただ、こうして選手入場が分割されているところを見るのは記憶にある限り初めてだったので、ともかくこの演出が引っかかりました。正直、開会式の見どころは入場してくる選手たちだと思っているので(これは人によるでしょうが)自分の足で歩くことなく、雨ざらしで船に乗せられ流れていく選手を遠巻きにカメラが映す様子は「なんだかな……」という印象を受けました。
なんていうか、回転寿司じゃないんだからさ。淡々と流される様子を見せるのってどうなのさ。選手がのびのびと歩いてくるところを見るのがいいんじゃないの?
で、合間に延々入る聖火ランナーの演出。これもはじめ見たときはかっこよかったけど、逆に言うとかっこいいだけで何のメッセージ性も無いんですよね。誰やねんお前。
最後にオリンピック旗を運んだ騎士にしても演出の意図が意味不明すぎる。一部ではヨハネ黙示録に出てくる死を象徴する存在、青ざめた馬の騎士だとまで言われているそうですが、さすがにこれは違うとしても、だとしたらあれはなんだったんだ?となってしまう。何故、彼(彼女?)が通った後に鳩を象徴する翼が点灯するのか?
言うまでもなく首を切られたマリー・アントワネットに見立てた女性を背後に歌われるメタルや、最後の晩餐のパロディをしたLGBTQも。
様々な演出の合間に自由、平等、博愛とかなんとかのフランス語が表示されていましたが、これらは本当にそれを表しているのか?という疑問が見終わった後からずーっと、頭から離れません。
もちろん、自由平等博愛の中には様々なマイノリティもまた含まれていますし、昨今のポリコレ疲れがあるからといって、そういった人たちをあえて入れるということに意義が無いとも言い切れません。ただ、それでもそれを含めた演出の全てについて何かずっと、喉の奥に小骨が刺さったような違和感というかイラつきがありました。
で、その正体を確かめるために。我々はアマゾンに……ではなく。
日本へと向かった。
■ 東京五輪開会式を振り返って知る、違和感の正体
というわけで、時を戻して2020東京五輪。
日本では、スキャンダルやらテレビ離れやらに加え、本来のプログラムとは違うこと、あるいは演出そのものに欠けた派手さのためか、やや不評の声も目立った開会式。これを見直してみました。
で、見直してちゃんと腑に落ちました。
ああ、オリンピックの主眼ってスポーツだよな。
あと、オリンピックって平和の祭典だよな?
まあ他にも、フランスお家芸のはずの自由平等博愛も日本のほうがよほどよく演出できてるだろ、というふうにも思いました。
一連の流れを詳しく話すと長くなるので、2020東京五輪の様子は実際に見てください。youtubeの、オリンピック公式チャンネルで開会式の全編動画が見られます。
(面白いことに公式チャンネルの動画のコメントで、称賛しているのは比較的海外のものと見られるアカウントが多い一方、批難しているのは日本のアカウントが多いように思えます。もっとも、称賛もパリと比べてというのもあるのかもしれませんが)
表現の巧拙については個々の評価に任せるとして、見るべきは表現されたことの内容です。
まず、開会式の多くの時間を割いてスポーツの表現や、過去のオリンピックの紹介などが演出されています。
また、コロナ禍の最中で行われたオリンピックであるため、それを意識した演出がいくつか見られます。スポーツが『壁』を破る演出であったり、エッセンシャルワーカーによる旗の運搬あたりが分かりやすいですね。
イマジンの歌唱や旗の運搬では各人種を起用しています。
あと、印象に残りやすいのはピクトグラムのパフォーマンスでしょうか。
一方、日本という国、東京という都市を見せる演出は全体から見るとかなり少ない割合に思えます。序盤にオリンピックマークを作る際に付随する形で演出された大工と祭り、そして後半で出てきた東京の街と歌舞伎ぐらい?
これらの演出を通しで見ていて、そしてパリオリンピックと比べて思ったことなのですが、最初から最後まで定期的に、身障者が映されていることに目がいきましてて。車椅子の人などは分かりやすいですが、聖火リレーのシーンではそれに加えて恐らく盲導犬を連れた人や、二人一組でロープ?を渡して走る人なども映りました。
このあたりの演出というのは、間違いなく意図して「身障者への配慮」を表現しています。配慮、というのもちょっと違う気もしますが。パラリンピックのこともあるので、配慮というより機会平等とか、そういう感じの社会的な和の表現に思えます。
日本は身障者。一方、フランスで目立ったのはLGBTQ。
確かにどちらも、一定の理解や配慮といったものは必要なのかもしれません。だから表現の中に入れた、というのは理解できます。どのような人であれ社会の一員であるというアピール自体はおかしいものではない。
だが、フランスの表現はやはり何か受け入れがたい、と感じさせる。
身体の問題と内面の問題。これらの表現の違いとは?
……いや、考えるまでもなく下品かどうかやろ。
と言いたいところですが、それに加えてもう一つ。
それはスポーツと関係があるのか?
という、こと。
LGBTQがスポーツと関係ないとは言いませんよ。少なくともトランスジェンダーがスポーツの中でどうあるべきか、という議論はこれからもなされるでしょう。私個人の考えもありますが、ここでは開会式に関係ないので割愛。
ただ、逆に言えばトランスジェンダー以外はオリンピックとは直接関係がないとも言えます。同性愛がスポーツの場において障害になるとは私には思えません。ドラァグクイーンやプラスサイズといったものは、そもそもオリンピックの文脈にはあるものですか?オリンピアンの中にそういった人たちがいてもいいですが、それは主題ではなくただ「そういう人たちがオリンピアンだった」というだけです。
身障者にパラリンピックがあるように、何か障害があってもスポーツはできるという発信。それは、私は大事だと思います。しかしこの文脈にLGBTQをねじ混む必要があるのでしょうか。
「身障者でもスポーツができる!」という言葉を置き換えてみましょう。「ヘテロセクシャルでなくともスポーツができる!」
日本人の感覚としては当然というか、あえて言う必要があるのか?という文言です。そも、彼らはスポーツへの参加を阻害されているのでしょうか?
どんな人でもスポーツに参加していい、というメッセージ。それをフランスは重要だと思ったのでしょう。それそのものは間違いではないのですが、力の入れ具合を間違っているような気がします。
また、過剰なまでの国家アピールもまた政治的なメッセージになりかねません。もちろん、近代オリンピックにおいては自国アピールが付随するのはもう当然のことになってきているのですが。それにしても、選手入場をぶつ切りにしてまで自国アピールをするというのはやはり違和感があります。
■ スポーツの祭典、オリンピック
オリンピックで自国や思想のアピールは、ある程度はもはや許容されているものでしょう。ですが、それはスポーツの祭典であるオリンピックを押しのけない程度のものであるべはずでは?
……と、無意識のうちに、そう期待していたことに私は気付きました。
だからこそ、私はパリ五輪には全体的に違和感を覚えるし、東京五輪については、少なくともオリンピックの理念に沿った演出だと思うのです。
身障者がクローズアップされ、人種の多様性も表現され、コロナ禍で大変な思いをしたエッセンシャルワーカーにも目を向けた。ゴジラ松井、長嶋茂雄に王貞治といったビッグな人から聖火を受け取ったのは、看護師や医師といった人でした。
フランスのゴジラはどうでしたか。首切り女性をバックにメタルですか。
長々と話すまでもないことですが、要はTPOを読み違えているんですよ。
例えば就職活動中、服装についての規定が書かれていない中で、スパンコール付きファー付きで足や胸が強調されているドレスを着ていったら、どう見られると思いますか?
そんなドレスを女が着ようが男が着ようが関係ありません。
「こいつは我が社に何しに来たんだ?」
と採用担当は首を傾げるでしょう。それが受け入れられる会社もあるかもしれませんが、少なくともオリンピックはそうではなかった。
就職なり何なりで嫌と言うほど聞いた「自己アピール」ですが(正直もう二度と聞きたくもない)、その場でただ自分のアピールをするだけの人はいないでしょう。会社から見て採用したいと思わせるアピールをするはずです。
パリ五輪開会式はそれをしなかった。自分の良さ、自分が思う素晴らしさをまくし立て、見る側にどういう印象を与えるかは考えなかった。
まあいつものポリコレ仕草ですよね。共感する人の声を大きく取り上げ、不快を示した人に対して不快感を表す。
誰かと対立してでもある種の思想を広めたいというのは好きにすればいいですよ、オリンピックという場でなければ。
けど、あの開会式のどこにスポーツと平和の祭典の要素があった?
「東京はパリよりマシ」という言説もありますが、とんでもない。東京五輪の開会式は、間違いなく「オリンピック開会式」として見せるべきものを見せていたとさえ思います。
■ 橋上のパリコレ、川面のモナ・リザ
最後に。あまり言及している人を見ていないのですが、個人的に残念というか、ひどい演出だと思ったものがモナ・リザです。
ミニオンズが出てきてモナ・リザを盗み、彼らが乗っていたセーヌ川を潜航していた潜水艦が沈没してしまい、モナ・リザは川の上に……という演出。
これが物凄く嫌。
当然モナ・リザは模造品でしょうが、それでも芸術を軽く扱っていないか?という気持ちになります。この後に、問題になっている最後の晩餐をパロディした演出も来るので過去にあった芸術、創作物に対する敬意なんてないんじゃないでしょうか、パリ五輪の演出家は。
あと、全体の演出の一部としてこのモナ・リザを見ると別の問題も出てきます。最後の晩餐のパロディはパリコレっぽい演出の一部だったんですが、これが橋の上で行われていました。
方や、きらびやかに飾られ、LGBTQやプラスサイズに配慮したと思われる人物を起用したパリコレ。
方や、もはやドブ川として名高いセーヌ川に投げ出されたモナ・リザ。
古い美を放り捨て、今の価値観をアピールするという悪趣味さ。
近年ポリコレが拡大するにつれ、美しさ、特に美女に対する風当たりが強くなっているという見方があります。ごく一部の人々でしょうが、痩せて美しくなろうと努力した人を「プラスサイズを馬鹿にするのか!」と攻撃する向きが出ている。こんな時流をポリコレ推しをしているパリ五輪サイドが知らないとはどうにも思えない。むしろ、あえてやったのではないか?とさえ思えてしまいます。
全体的にそうですが、あまりにも演出に悪意がありすぎる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?