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哲学の探求

自分は音楽が好きだと、長いこと思っていました。以前も書きましたが、子どもの頃からうるさーい音楽が好きで、いろいろ聞いたりライブハウスに依存したりしていました。でも振り返ると、わたしは歌詞ばかり聞いていた気がする。伝えようとする言葉が好きだったんですね。

ここ数年で、おもしろくて仕方ないから音楽を道具にして生きています、という人たちに出会いました。彼らの共通点は、案外理系っぽいというところ。飽くなき探究心を糧に「これとこれを組み合わせたらどうなる?」という実験を繰り返し、ただただ探求している。彼らには彼らの理屈がきちんとあって、実に筋が通っているんです。だから、音楽の話がよくわからないわたしも感じることができるし、作り出した曲を精度を落とさず遠くまで届けることができる。生み出そうとしている人たち一人ひとりの哲学を聞くと、とてもおもしろいんです。絵画や音楽、料理、広告…。異なる手法であっても個人個人の哲学が共通言語みたいに働いて、世間話すらぶ厚くなる。なんでもない日常の風景も、発見だらけの知の景色にも変わる。わたしはその瞬間がとても好きです。

見たままを受け取るだけでは多くを語れません。コントを見ていても、漫画を読んでいても、バスガイドさんの話を聞いていてもわかりますよね。普段の仕事でもよく感じることです。「こんなビジュアルで」と随分昔の花形広告を持ち出してきたり、ピンタレストから引っ張ってきた海外の写真を取り出して「こんな雰囲気のかっこいいやつ作ろうや」とか、ね。どうしてこれを持ってきたのか聞いても、ロジックもゴールもない。友だちのライブに行ったとき「『toe』って書いたTシャツ着て「お疲れさまです!!」とか言ってきたインスト曲やってる対バンの子がいたけど、いますぐやめたほうがいいって思った」と言っていましたが、そういうことです。いますぐやめたほうがいい。

何かを作ろうとする人の中にも、既に存在するそれっぽいものが作りたい人と、作りたいものありきで生きている人がいる。もしくは、それっぽいものに気を取られているうちに考えを持てなくなってしまった人もいる。感受性と哲学脳をつなぐには、ある程度のリミットがあると思っています。脳みそがユルユルだとスッと通るところも、頭が硬いとバイパス作業が難しかったりして。個人的な体感ですが、5年前にできたことが最近難しくなってきて、すこし危機感を感じています。はじめてみると「書く」という仕事は、想像以上に複雑で、慣れなくて、いつまでも自信が持てない仕事でした。随分しんどい職を選んでしまった。でも、これがわたしの哲学を探求するための手法です。ミュージシャンが音楽をやめないのと同じ。メーカーが商品開発をやめないのと同じ。総理大臣が国を良くしようとするのも、カルト宗教家が人を殺すのも、もしかしたら同じ理由なのかもしれませんね。知らんけど。

また明日。



(toeはとても好きです)

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