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幸せとはなんぞや

「幸せってなんだと思いますか?」最近出会ったインパクトある問いです。普遍的なようで尖ってるなと感じたのは「両親が幸せそうに見えないから、幸せが何かわからない」という問いの導入部です。みなさんは自分の両親を見て、幸せそうだなぁと思いますか?わたしから見た両親は、大変そうな人たちです。だけど、両親のようになりたいと思っている。さてさて、幸せとはなんぞや。

わたし「幸せ」って、あくまで「わたし」にだけくっついてくる一人称のものだと思うのです。わたしと誰かを「幸せ」という括りで繋ぐことはできない。例えば「彼といて幸せ」というより「彼といるとおもしろい」のほうが本当なんです。「幸せ」って誰かと共有するものではなく、二人称で共有できるのは「楽しい」とか「おもしろい」とかその瞬間瞬間の感触だけ。そういう瞬間の積み重ねを振り返ったときに、初めて「あぁ幸せだなぁ」とそれぞれが染み染みするようなものなんじゃないか?と思ったのです。みんなで集まってわーわー騒いでいるとき、幸せだー!とかいうと、途端にきな臭くなる。ひねくれすぎでしょうか。確かに(いま!めっちゃ幸せ!!!)という瞬間はあるんだけれど、自分の中で湧き上がった幸せは、自分の中に秘めていたほうが純度の高い状態を保つことができる気がするんです。抽象的な話になっちゃいますが。なんとなく。「わたしいま幸せだよ」「うん、ぼくも幸せだ」という掛け合い、胡散臭いというか鈍臭いというか台無しというか興ざめというか。(あーしあわせ)(最高にしあわせだ)とニコニコ見つめ合ってたほうが、なんだか高まるのです。

つまり、誰かと共に生き、共に幸せを感じるためには、具体的な何かを共有することが必要です。「時間」とか「食事」とか、「我が子」とかね。その対象に対して、楽しいとかおいしいとか、愛おしいと感じ合うことで、ひとりひとりの中に「幸せ」が育まれていくんじゃなかろうか。だから、愛し合っていないように見えるから「幸せじゃない」というのは、余計なお世話なんですよね。ふたりが共有することで満たされていて、その状態を保ちたいんだから、それでいいじゃない。

同じことが、あらゆることに言える気がします。子どもがいないから不幸とか、父親がいないから不幸とか、余計なお世話発言が飛び交う世の中です。でも、その夫婦や親子が何を共有しあっているのか、どういう思いで繋がっているのか、そんなことは外からでは何もわかりません。もしかしたら、本人たちもその瞬間が幸せかどうかわかっていなくて「不幸だ!」と言われるだけで、たまらなく不安になってしまうかもしれない。10年後に振り返ったときのための「幸せ」を蓄えている途中段階なのかもしれない。それを外から不幸だと決め付けて、ガミガミガミガミうるせーよと思うことが多いです。楽しかったらいいじゃんね。絆とかいうと、途端に嘘くさくなるんだけど。

また明日。

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