羽化しない蛹は、額縁の外側の夢を見る。

ある小説に、目覚めないロボットが出てきた。

そのロボットの製作者は、これだけ高い知能を搭載したのに目が覚めない、とぼやくのだが、その製作者に対して、賢すぎるから目覚めないんじゃない?と返した登場人物がいた。

賢すぎて目が覚めないということがあるのだろうか。フィクションでなく現実で?ロボットではなく人間で?

はた、とキーを打つ手を止めて考えてみる。そもそも賢さとは何だろう。

賢さとは私が思うに、額縁の外側について考える力ではないか。

私たちは愛とか美とか幸福といった抽象的な物事について考えるとき、その茫漠とした概念の一部を額縁に入れて考える。

例えば、クラゲのフォルムの美しさについて考えるとき、空手の型の美しさや、シトロエンの車体の美しさについては考えない。

けれども、賢い人はクラゲのフォルムをいとぐちに、敷衍して美という概念について考える。空手の型やシトロエンにも当てがうことができる、普遍的な美について考える。

それは、額縁の外側を考える行為だと思う。

額縁は大きくも小さくも出来て、果てしない。賢ければ賢いほど、額縁の外側の額縁の外側の額縁の外側の額縁の外側の……と無限に広がっていく。

額縁が大きくなればなるほど、額縁の中も広くなっていく。見るもの考えるものが無限に増えていく。

だけど、考える物事が増えるということは、処理速度が追いつかないということでもある。生物の脳には機能的な限界がある。

以前、夢の中の過ごす時間がどんどん伸びていく奇病に冒された男の話を読んだ。

その男は、夢の中で何年、何十年という時を過ごし、やがて眠る前の記憶が曖昧になっていく。最終的には、目が覚めなくなり肉体が崩壊してしまうという話だった。

賢すぎると目覚めないというのは、まさにこのことなのではないか、と思う。

あの小説に出てきたロボットはあまりにも賢すぎるあまりに、目を覚ますことで触れる情報の膨大さと深遠さを起動する前から予測してしまい、処理できずにいるのではないか。だから、ロボットは目を覚さなかったのではないか。

それでは、もしも人間、あるいは他の生物がどんどん賢くなっていき、無限の額縁を造れるようになってしまったら。

もしかすると、生まれてこないのだろうか。

そこまで考えた私は、家から通りに出る路地の石塀にずっとくっついていたキアゲハの蛹を思い出した。

私は一昨年の秋にその蛹を見つけ、その路地を通るたびに、いつ羽化するのだろう、どんな子が生まれるのだろう、と楽しみに待っていた。

冬を超え、年をまたぎ、通常であれば羽化するはずの春が過ぎ、夏がやってくる。

私が蛹を見つけてからもうすぐ一年になろうとしたある日、石塀の家の住人が何かしたのか、はたまた烏がやってきて啄んだのか、蛹は抜け殻も残さず消えてしまった。

単に落ちたのなら石塀の下にいるはず、と往来する際に探しもしたが、蛹の姿はどこにもない。

そして再び秋がやってきた頃には、私はこの蛹の存在をすっかり忘れていた、ということをたった今、思い出した。

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