人が死ぬのは、死を目撃したから。

次々と著名な方々が亡くなっている。

往生であれば取り立てて思うこともないのだけど、パンデミックしているコロナウィルスに罹って亡くなったり、自ら命を絶ったりして、お茶の間で毎日見ていた人が突如として消えていく。

その衝撃にみんなざわついている。

ある統計によると、Twitter上のツイートでここ最近もっとも恐怖の感情を伴った割合が高かったのが、日本が誇るコメディアン・志村けんさんがコロナウィルスで亡くなったときだそうだ。

きっと、つい先日亡くなった俳優の三浦春馬さんの件も、今現在SNS上で爆風のような波紋がうわんうわんと広がっていることだろう。

実際SNS上のコメントを見ていると、亡くなったなんて信じられない、まだ生きている気さえする、というコメントがちらほらあった。

まだ生きている気さえする。

いったい人はいつ死ぬのだろう。

古い医学知識を用いれば心臓が止まったとき、となるだろう。最近では脳死という考え方もある。

だが、それは医者が死を判断するときの基準でしかなくて、本質的に人の死を決めるものではない。

人々は一度も会ったことのない志村けんさんや三浦春馬さんを悼んでいる。死亡した現場にいたわけでもないのに。

彼らの死はいったい何によって決定づけられたのだろう。

私は基本的にテレビを見ないので、彼らが動いている姿を見たこともほとんどない。

だからなのか、彼らが死んで存在が消滅したことと、SNSやテレビ越しに姿を見なくなることの間に、どのような隔たりがあるかがピンとこない。

これは何も彼らに限ったことなく、例えば、失踪している人や遠方にいて連絡がつかない人についても言えると思う。

死んでいる状態と生死を確認できない状態の間に、いったい何の違いがあるのだろう。

究極を言うならば、曲がり角の向こうにいてこちらから見えない人は、果たして生きているのだろうか。

私はその違いがあまり分からない。いや、分からないというか、感情的には分かる部分があるものの、どこか心の中で収まりが悪い感じがする。

今日はその収まりの悪さを思い出して、ムカムカした胃で忙しなく歩き回り、落ち着かない心持ちでカフェに入り、マンゴーティーを飲んでいたとき、ふと、現在時点においての一つの結論に至った。

死によって存在が消えることと、失踪していることと、姿が見えないところにいることは、本質的には何も変わりがない。そう、変わりがないのだ。

けれども、あえてそこに違いを見出すとするならば、それは死を目撃したかどうかだと思う。

必ずしも物理的に死に目に会う必要はなくて、いない理由、見えない理由が死であると断定されれば、それは死を目撃したことになる。

志村さんも三浦さんもニュース越しに死亡を伝えられた。我々はニュースの文字列として死を目撃したのだ。

失踪している人は、遺体が上がらないうちは死と認められない。遠方の人や曲がり角の向こうの人も、死を目撃しなければ死んではいない。

死を目撃したとき人は死ぬのだ。

私たちは今、死の情報を目撃して心をざわつかせている。

死の情報はインターネットに繋がると、どこからでもやってくる。私たちは文字列や電気信号で死を目撃し心を病む。

テレビの電源を落とし、SNSを閉じれば、と思うけれど、結局誰かと会うと、ねぇねぇ三浦春馬が亡くなったんだって、あれだけ活躍していたのに、あぁ私大好きな俳優だったのに悲しいなぁ、そうそうなんかバイト先の先輩のおばあちゃんがコロナに罹って死んだんだって、怖いねぇ、ほんと怖い、なんて話になって、逃れることはできないのだ。

私たちの生は、もはや死の情報と癒着している。

死の情報に争うためには、生の情報を得てバランスをとるしかない。

では、誰かの子供が生まれた話を聞けばいいのか、というとそうでもなく、情報にはある種の魔力があって、人は生じるものより消えゆくものに心惹かれてしまう。

その魔力を超えるものが一つだけある。それは欲求だ。

今、私はこれを書きながらとてもお腹が減っている。時刻は夜九時ちょうど。夕食はまだ。

あぁ、窓越しに見える通りの向こうのイタリアン美味しそうだなぁ、いやでもここの道の先にあった焼肉屋も悪くないよね、別に何があったってわけじゃないけど、焼肉しながらお酒飲むのもありだよねぇ、えへへ、と考えている。

死の情報の魔力を上回る、生の欲求の魔力。

さて。ここ最近、死について目撃しすぎて目の奥が熱を持ってしまっているから、今日はお肉でも食べながらお酒をいただこうかな。

ぜん動し、鳴るお腹を抑える。

ここに、私は生きている。


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