「努力」には3つの読み方がある。/水樹奈々「全力DREAMER」&「Go Live!」について
・努力の人、水樹奈々
先日こんなツイートをしたところ、多くの反応があった。
問題のルビは先日リリースされたばかりのアルバム『DELIGHTED REVIVER』に収録されている「全力DREAMER」で登場する。ってかすごい曲名だな。
「全力DREAMER」という曲名を聴いた非・水樹奈々オタクの友人は、「”架空の水樹奈々の曲名を答えよ”って大喜利の答えみたい」と言っていた。
ともあれ、水樹奈々はファン以外の人間にも「超人」「努力家」のイメージで知られているようで(そして水樹奈々は「超人的努力家」である)、そのあたりを証明するようなツイートには比較的大きな反応があるように思う。
(大きな反応の例)
結婚・出産を機にさすがにブログの毎日更新は途絶えたものの、やはりこれも水樹奈々が「当たり前」を地道に積み上げることができる人間であることの証左にほかならない。
そんな水樹が「努力」に「当たり前」とルビを振ってしまうことのえげつなさ。もっといえば、「努力」と「当たり前」をイコールで結んでしまうことの恐ろしさ。
実際のフレーズは2番サビにて登場する。
「叶わない夢」を「下らない言い訳」とバッサリいくのがなんとも水樹奈々らしい。たしかに僕たちは大人になるにつれて、「やらない理由探し」や「動かないわけ」ばかりを見つけるのが上手になってしまう。
「夢を叶えるために努力するエネルギー」と「いまの生活を安穏と維持するエネルギー」を天秤にかけて、後者を選び取ってしまう。そしてそれを”正当化”するために、どこかで聞いた理屈をこしらえて自分に言い聞かせる。仕方がないと。これが大人になるってことだと。そう。ほんとうは自分自身がいちばん気づいているのだ。それこそが「下らない言い訳」だと。
もっとも実際に曲を聴いてみると、「努力-当たり前- 重ねることは難しいけど」と、「当たり前」は”当たり前であるがゆえ”に難しいというような文脈で使用されている。つまり、そこまでスパルタンな世界観でもない。
「全力DREAMER」はアルバムの13曲目に収録されている。踏まえて、アルバムの15曲目──全曲のラストに収録されている「Go Live!」を見てみよう。おもしろい符号らしきものが発見できる。
「全力DREAMER」では「『叶わない夢』なんて 強がって下らない言い訳並べて」と歌ったあとに、「Go Live!」では「『叶わない夢なんてない』ってTVなんかじゃ 叶えた側の人が偉そうに言うけれど」と皮肉に切り返す。
言ってみれば、水樹奈々が言ったことに水樹奈々自身が反論している──そんな奇妙な構図が浮かび上がってくる。この「分裂した水樹奈々」とでも呼ぶべき現象の正体はなにか。
このあたりは2曲を手がかけた作詞家の性質の違いを見れば、理解できる。
そして、「全力DREAMER」は水樹本人の手による作詞だが、「Go Live!」はロックバンドsajiのボーカル・ヨシダタクミによって書かれている。
さらに、水樹はインタビューの中で、ヨシダタクミの詞世界について「思春期」というキーワードで語っている。
ほかのインタビュー記事でもヨシダについて語る水樹奈々の口からは、「思春期」というワードが登場している。
なお、水樹が言う「対談」とはおそらく、アルバムにも収録されているデジタルシングル「ダブルシャッフル」のリリースを記念して実施された以下の対談記事のことを指している。
そのものズバリの発言ではないが、おそらくこのあたりのヨシダの言葉を踏まえて、水樹は彼の詞世界を「思春期」と表現してみせたのだろう。
ほかに水樹がインタビューの中でヨシダタクミの詞について語った部分から、キーワードになりそうなものを抽出してみよう。
・大人になって丸くなるのではなく
・毒気
・悔しさ
・怒り
・迷い
・トゲトゲしい
・卑屈
・ちょっとひねくれた感情
・青臭さ
・ピュアさ
・エッジ
・人間の弱さや尖った部分
どうだろうか。
卑屈で、トゲトゲしくて、ひねくれており、青臭くて──だけど、ピュア。
おそらく「思春期」にはそのあたりの意味が含意されているといえそうだ。
なお、水樹のファンクラブ会報のなかでもふたりの対談は行われており、その際にヨシダは自身の詞世界に登場するキャラクターたちに対して、
「基本的に僕が書く(楽曲の)中に出てくる人は、みんな怠けてます(笑)」と発言している。
さらに、上のインタビューでヨシダが自身の詞を「偏屈なキャラばかり出てくる」と発言したことも見逃してはならない。
なるほど、「偏屈」とはある意味で思春期の特権である。
あるいは「反抗的」といいかえてもよい。
世間や社会や両親に対して「偏屈」であること──それは”若さ”というものの一側面である。
いずれにしても、水樹奈々が見ているヨシダタクミの世界観と、ヨシダ本人の自己認識にはそこまで大きな乖離は見られないといえよう。
となると、なおさら──こういう疑問がわく。
すなわち、なぜ水樹奈々の世界観のいわばアンチテーゼともいえるヨシダタクミの世界観をおなじ作品のなかで共存させるのか。
いっぽうで、水樹自身はヨシダタクミの歌詞に共感を示している。
しかし、はたから見ていると、やっぱりヨシダタクミの詞世界は水樹奈々っぽくない。
それが上で指摘した「分裂した水樹奈々」に象徴されているというのは筆の先走りだろうか。
その証拠というわけではないが──長年、水樹奈々へのインタビューを担当しているライターの斉藤貴志は、「Go Live!」を踏まえて、
「夢を叶えた人に対して<そんなのひと握りだって>というところも、多くの人が共感すると思いますが、奈々さんはひと握りの叶えた側ではあります」とある種、当然ともいえるツッコミを本人にぶつけている。
この質問を読んだとき、僕はほんとうに「そうそれ!」と四文字叫んだ。
もう少し翻訳すると、「あんたが言うなや!」である。
それに対して、水樹は、
「でも、私もデビューが決まらない頃やオーディションに落ち続けていた頃は、こういう気持ちになっていましたから。そうだよね……と噛み締めながら歌っています。諦めずに走り続ければ笑える日が来ると、あの頃の自分に届けたい想いもあります」と反駁しているが、これは……微妙に噛み合っていない気がする。
なお、インタビュー記事はインタビュアーの鋭いツッコミに対して、インタヴュイーが正面から受けるのか、すかすのか、そらすのか、かわすのか──それが最大の読みどころである。そういう意味でこのインタビューは同時期に発表されたほかの記事にくらべて、圧倒的にスリリングだ。
話がそれた。「分裂した水樹奈々」についてだ。
この分裂を僕なりに要約するとこうだ。
水樹奈々の詞世界は基本的に明るくポジティブなバイブスに満ちている。「夢は叶う」と本気で、心の底から信じている。
一方で、
ヨシダタクミはそんな水樹奈々の詞世界に乗り切れない人たち──つまり、暗くネガティブで、「夢は叶う」となどと宣う人生の勝利者に対してになんなら反発を抱いている人に向けて書かれている。
異なるふたつのスタンスを並列させること。
一見矛盾してすら見えるメッセージを等置すること。
なぜ、そんなことをする?
なんのことはない。
全員を助けるためだ。
つまり、水樹奈々は全員を拾い上げようとしている。
誰ひとり残らず鼓舞しようとしている。
疑問は循環する。なぜそんな真似をするのか?
その答えはやはり水樹奈々の自身の歌に聞くしかない。
アルバムの1曲目「MY ENTERTAINMENT」のラストは以下の言葉で締めくくられる。なおこちらはヨシダタクミが作詞作曲を手掛けている。
なんてシンプル。
そういわれれば、こちらも「そらそう」とまたもや四文字叫ぶしかない。
水樹奈々に乗り切れない人も水樹奈々は見捨てない。
なぜなら、ひとりぼっちは寂しいから。
それだけ。それでじゅうぶん。
思い出そう。アルバムのタイトルは『DELIGHTED REVIVER』だ。つまり、「喜びいっぱいで復活させる人」。そんなサンタクロースみてえなタイトルをつける人間が、僕たちを見捨てるわけがないのだ。サンタクロースは誰のもとにも平等に訪れる、ことになっている。
それゆえに水樹奈々は"水樹奈々っぽくない詞"を書くことができるヨシダタクミを重用している。これは深読みがすぎるだろうか?
さらにいえば、先ほど引用したリアルサウンドの対談を見るに、水樹は本人作詞以外の楽曲に対しても、相当のディレクションを行っていることがうかがえる。
その証拠に、アルバムにも収録されているデジタルシングル「ダブルシャッフル」の歌詞づくりの際に、作詞を担当したシンガーソングライターのしほりに対して、リテイクを出したことを告白している。
直後、ヨシダもこう証言している。
水樹奈々本人には書けないメッセージをヨシダタクミに任せながら、それはそれとしてしっかりとディレクションとリテイクを行う。そうすることで、どこかで”水樹奈々らしさ”を担保する。水樹奈々印を焼き付ける。どうやらこの歌姫はなかなかにクレバーであるといえる。
・「努力」の別解
ここまで「全力DREAMER」と「Go Live!」を軸に、ふたつのスタンスを自由に行き来する水樹奈々の詞世界を見てきた。
そもそも本テキストは「全力DREAMER」で「努力」に「当たり前」とルビが振られていたことがきっかけで執筆されているが、実は「Go Live!」でも「努力」にべつの当て字ルビが振られている。
やっと結論にたどりついた。
そもそもこのことを書きたくて筆をとったのだが、少しまわり道が長くなりすぎた。
そう、「努力」は「当たり前」であると同時に、「きぼう(希望)」でもあるのだ。
どれだけ落ち込もうとも、ネガティブで後ろ向きになろうとも、努力をつづける限り──つまり諦めないかぎり、決して希望はなくならない。道は開ける。
夢は叶えるものである。
それでもほとんどの人の夢は叶わない。
それが現実だ。
プロ野球選手にはなれないし、総理大臣にもなれないし、紅白出場歌手にもなれない。
人生とは基本的に「挫折」と「諦め」の連続である。
どれだけ画面の向こうの成功者が「夢は叶う」といったとして、それは端的に欺瞞である。画面のこちら側の冴えない日々が急に明るくなるわけもない。少なくとも僕はそうだ。
それでも、それでも──。
「夢」を持ち続けるかぎり、人は努力をしつづけることができる。たとえ諦めとしても、「もう一度、夢を見」さえすればまた努力をリスタートすることができる。
そしてなりたいなにかに向けて不断の努力をつづけることは単純に楽しい。それはなにもだいそれた「夢」である必要はない。1年後、1ヶ月後、1週間──いや、明日の「目標」でもよい。それくらいの読み替えは許してほしい。
夢があることや目標があることは、それだけで人生を輝かせる。
くりかえす。「夢」とは「叶える」ものである。
しかし、まだ叶っていない「夢」に向かって「努力」をしつづけることそれ自体が、実は肝要なのではないか。その態度こそを「生きる希望」と呼ぶのではないか。
夢や目標はないよりあったほうがいい。
なぜなら、あったほうがおもしろいから。
だから、水樹奈々は「努力」に「きぼう」と振った。より正確にいえば、自分で「努力」に「当たり前」のルビを振ったあと、ヨシダタクミが「きぼう」とべつのルビを振ることを追認した。
努力できる人/努力できない人。
そのどちらも見捨てたくないなら。
見捨てることは、「喜びいっぱいで復活させる人」らしくないから。
希望を抱きつつ努力する。
そうしているうちにいつの間にか「夢は叶う」。
水樹奈々を見ていると、ときたまそう信じたくなる日もあるのである。
(終わり)
(追記)
本テキストはもっとも信頼するオタクである森凧氏の以下のツイートに触発されて執筆した。感謝とともに記しておく。
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