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「LIVE JUNGLE」ムービーにおいて水樹奈々はなぜ”孤独”なのか。

※本テキストには以下の内容についてネタバレがございます。あらかじめご了承ください。
・水樹奈々「LIVE JUNGLE」
・映画『猿の惑星』(1968年)

人類に心すべし。悪魔の手先なればなり。神の産みたまえしなかで、人類のみが戯れと欲のために殺しを行う。兄弟の土地を奪うために兄弟を殺めるものあり。人類のはびこるのを防ぐべし。彼等は群れを成して、大地を荒らすのみなり。遠ざけよ。砂漠の彼方ジャングルへすべてを追い払うべし。人類は万物の死を招く。

『猿の惑星』「聖典」第29章6節より

禁じられた地域はかつて楽園パラダイスだった。
お前の同類が砂漠にしてしまったのだ。ずーっと以前にな。

『猿の惑星』ザイアス博士


水樹奈々夏のライブツアー「LIVE JUNGLE」が開催中だ。
6月15日・16日の三重県営サンアリーナ公演を皮切りに、4都市8公演の予定である。

いまこの文章は6月23日の正午前に仙台駅近郊の喫茶店にて書かれているのだが、昨日(今日23日も)もゼビオアリーナ仙台でライブがあった。

僕はいまのところ全公演に参加している。セットリストや本人のパフォーマンスはもちろんこと、「JUNGLE」という名のとおり──これまでの人工的で豪華な装いに比して、ステージ上のいたるところに草花や木々が設置されたナチュラルなステージセットや、水を新鮮に使った演出の数々も満喫している。

SNSをすべてやめてしまったことで簡単な感想を残しておく場所がなくなったことを受けて、本テキストでは箇条書き程度の個人的メモの集合記事になるはずだった。しかしながら、演出上の「ムービー」について書いていたら、けっきょくはいつもどおりの分量となってしまった。あらかじめご了承願いたい。

前置きが長くなった。はじめよう。

さて、水樹奈々のライブはある程度、「構成」が決まっている。

たとえば冒頭にムービーが流れて、その後、水樹奈々が3曲披露してMC──という風に。たとえば本編クライマックスにはアッパーなアゲ曲3連発が1ブロックか2ブロック用意されている──という風に。それはMCで話す内容についても及んでいる。たとえば2着目の衣装になって最初のMCでは客席からの「まわって~」のコールに水樹が答えて、くるっとその場で1回転して衣装を見せる。あるいはアンコール後のMCでは自身の冠ラジオ番組「水樹奈々 スマイルギャング」に触れる──という風に。

そういった構成の固定化──いじわるな言い方をすれば、”テンプレ化”についての是非はここでは問わない。水樹の生真面目な性格が反映されている硬質な構成であるとだけ言っておこう。本テキストは、ライブ終盤エリアに突入する前に決まって流れるブリッジ・ムービーについて触れることが主な目的である。

水樹奈々のライブではだいたい24、5曲の楽曲が披露されることが多い。そのうちアンコールが3、4曲なので、本編は20曲前後で構成されている。その3分の2あたりを過ぎたところでストーリー性のあるやや長めのムービーが流される。

この映像は水樹奈々ライブの抽象的なタイトル(直近のところではJUNGLE、PARADE、HOMEなど)の世界観を象徴するような内容になることが多い。また、だいたいにおいてオープニングで流れたショートムービーと世界観・ストーリー的に関連していることがほとんどだ。

近年、僕はそのブリッジムービーについて、やや辛めの評価をしてきた。上手くいけばアニメソングの背景にアニメがあるように、ブリッジムービーが直後に披露される楽曲の世界観を補完しエモーショナルな効果を発揮するはずが、こうなんというか──いまいち内容が茫洋としていたり、ギャグに走ってしまっていたりで(それもあまりおもしろくない)、大仰な演出のわりにはこちら側のテンションを引き上げる効果をもたらさなかった。

しかも、ブリッジムービーから3曲連続でアッパーな楽曲が演奏されたあとに(曲目は違えどこれもだいたいおなじ構成)、水樹がMCでブリッジムービーについての撮影秘話を語るのだが(これもだいたいおなじ構成)、どうにも我が推しには物事をきちんと語りすぎる悪癖があるようで、ムービーの世界観やストーリーについて懇切丁寧に”説明”してしまう。

そのMCを聞きながら、いつも僕は苦々しい表情でこうつぶやいていた。
ムービーの内容は映像で語ってほしい、と。

そりゃあそうである。
映画でもドラマでもアニメでも──あるいはミュージックビデオにしたって、すべての映像コンテンツは”描写”で語るものである。ストーリーについて登場人物や語り部がべらべらと”説明”してしまっては、興ざめと言うほかない。

たとえば、米国の物書きの世界においては説明的すぎる台詞は書き手の未熟さの証として忌避される。それを示してか、ドラマの登場人物である父親が息子に対して、「君も知っていると思うが、ボブ、私がお前の父親だ」などという──あまりに説明的すぎる台詞を皮肉って、「君も知っていると思うがボブ台詞」などと言われることがあるそうだ。言うまでもないことだが、現実ではこんな会話はありえない。なぜなら、ボブにとって目の前の男が「父親」であることは生き別れの再会でもないかぎり、自明なことであるからだ。

すなわち、観る者に重要な情報(この場合は登場人物たちの家族関係)を伝えたいときに、それを”描写”によって自然に示すのではなく、”説明”によって処理してしまうことは脚本および演出の不出来のあかしとなるということだ。

その観点でいえば、MCで水樹が直近のムービーを”説明”してしまうことは、「君も知っていると思うがボブ台詞」よりもっと酷いということになる。なぜなら、「ボブ台詞」はそれでもまだ作品内の登場人物の発話によって処理しているが、水樹はいわば製作陣のひとりとして、作品外からその内容を語ってしまっているからだ。

たとえて言うなら、映画を観に行ったら、スクリーンに監督やら主演俳優のインタビューが流れて、それでもって内容を”説明”するようなものなのだ。我々はトム・クルーズが長々とストーリーを語るインタビューではなく、彼の身体性でもって尋常ならざる危機を打破していくアクションを観たいのだ。

しかし、今回のブリッジムービーは一味違った。というか、”描写”の仕方が劇的に上手くなっていて、思わず僕なんかは感嘆の声さえ漏らしてしまったほどだ。

この点に補助線を引くために、ここで映画脚本用語である「シャレード」という概念について説明しておこう。戦後の日本映画を支えた脚本家・新井一の著書『シナリオの基礎技術』からその定義を引用する。

「手法の視覚的な面の鍵はシャレードです。シャレードというのは、ただ次のことを示します。つまり何かを象徴として示すことによって、その言わんとする意味が伝達される。その”何か”なのです」(後藤和彦役・ダヴィッド社刊『テレビ台本作法』より)
 ここにも書いてあるように、視覚的な面の鍵・・・・・・・といわれるべきもので、一つのもの(小道具・動作等)を見せることで、その背景や陰にあるものを、そのものズバリと的確に表現する技術といえましょう。

※太字は引用者による。なお、傍点は横書き用のものにあらためた。

新井一『シナリオの基礎技術』(1985)ダヴィッド社 、P162より

孫引き混じりで恐縮だ。
なお、これだけでは観念的で少々わかりづらいかもしれない。

詳しい定義は本のなかでたくさんの例を交えて紹介されているのだが、丸めていえば、

言葉に頼らず、何かに託して表現すること
説明ではなく、映像で表現すること

(尾崎将也『3年でプロになれる脚本術』(2017年)河出書房新社、電子版40ページより)

と考えてもらえれば、とりあえずはいいだろう。

たとえば、『ローマの休日』の冒頭でオードリー・ヘップバーン演ずるアン王女はパーティ会場で列席者による挨拶を順番に受けるが、その際、ドレスのスカートのなかで片方の靴を脱いで、足を掻くという描写がある。

これは軽いギャグ以上に、アン王女が王家としての生活に退屈していることを暗示する、という意味がある。そのことが直後のアン王女が側近たちに不満をぶつけて、挙げ句にひとりローマの街へ飛び出すことの心理的な伏線の効果を果たしている。これがシャレードのわかりやすく、見事な例である。

もちろん水樹は例によって例のごとく、ブリッジムービーのストーリーをMCで”説明”してしまっている。そういう意味では、スマートな”描写”──シャレードとは無縁なはずである。メモなどを取ったわけではないので正確ではないのだが、その内容を僕なりに本人の言葉を補いながら再構成すると、「水樹奈々演じるひとりの研究者が新たなエネルギーを生み出して自然環境をよりよくするために研究活動をしていたが、その鍵となるひとつの暗号が解けないでいた。そんななか、サポートロボであるナネットさん(後述)のなかに眠っていた古のアドバイザー・”ひろし”(神谷浩史)の助言により見事に暗号を解く」というものだ。

イメージ的には、『インターステラー』的なユリイカの瞬間を描いたものといえば、伝わるだろうか。暗号の答え自体が水樹奈々がこれまで作詞してきたぶっ飛んだ当て字(いわゆる奈々語)の読み方になっていたり、それに至るまでに”ひろし”によって水樹奈々が無茶ぶりを受けて、ダジャレやモノボケを披露し、ひろしに容赦なく突っ込まれるなど──近年の傾向どおり、ギャグと内輪ネタ色が強いものになっている。

しかしながら、僕は水樹がMCのなかで語った内容に関して、どうにも”語り落とし”があるような気がしてならない。平たく言えば、あえて伏せている情報・・・・・・・・・・があるように思えるのだ。

なぜ、そう思うのかといえば、映像の”描写”によって読み取れる情報がほかにあるからだ。”説明”されていないことが”描写”されている。つまり、そこには見事なシャレードがある。

どういうことか。
その”描写”──そして僕が感嘆の声を漏らしたポイントはムービーの前半部に存在する。ここからはムービーの内容を記憶を総動員して逐語的に語ってみる。

まず、ムービーの世界観を示す自然いっぱい──というか自然しかない環境下が写し出される。都市や文明の匂いがほとんどしないなかで、唯一の人工物(らしき)であるドーム状の建造物のみが周囲から浮き出すように存在している。

カメラはポッドと呼ばれるその建造物のなかに移動し(なお、ポッドの内壁には「LEVEL 7」と書かれている)、そのなかで研究者・水樹奈々がひとり研究活動に励んでいる。べつにここで「あたしは研究者」などというダサいナレーションを吐かせるわけではない。これは友人のニカ氏が指摘していたところだが、まずビーカーをマグカップ代わりにしてコーヒー(らしき液体)を持つ水樹本人を映し出すのだ。この時点では映像内の水樹の正体は確定しないが、注意深い人には「ははあ、なにがしか理系の研究室にいるな」と類推することが可能である。これである。これが”描写”、これこそがシャレードなのだ。

その後、ビーカーをテーブルに置いてソファに腰かけた水樹はVLOGのような形で、サポートロボのナネットさんが差し出すカメラに研究をはじめてからの日数を報告する。ポッドに入って何日目、中にいると時間感覚がわからなくなるようなことを言っていたように思う。どうやらこの空間に人間はひとりしかいないようだ。そんな孤独な水樹をサポートするのがナネットさんである。なお、ここでの「ナネットさん」とは、水樹自身が味のある画力で描いた鳥のマスコット・ナネットさんが機械化した姿のことだ。ファミレスの配膳ロボを重装甲化したようなイメージといえば伝わるだろうか。

本来のナネットさん

その後、水樹はおもむろにネイルをはじめる。ここが僕がもっとも感心した点であるが、それを見たナネットさんはこう言うのだ。

「研究をするのに、ネイルなんているの?」
(女子力だからそういう問題じゃないという返事を受けて)「見せる人なんていないのに~」

これである。なんか微妙におじさん臭いデリカシーのなさが気にならないでもないが、この何気ないやり取りに隠された”真の意味”に気づいたとき、僕は思わず声が出た。
おわかりだろうか。まだぴんとこない人は想像してみてほしい。

ネイルが見せる人がいない」という状況は一体全体、どういうものだろうか? 
答えを出すまえに、フェアネスのためにもう少しヒントを足さねばならない。注目すべきはオープニングムービーである。

最初に言ったようにブリッジムービーはオープニングムービーと世界観を共有していることが多いのだが、そういえばオープニングにおいて、水樹はまるでコールドスリープされた・・・・・・・・・・・・・・かのように、繭のようなマシンから目覚めていた。なお、ここで状況説明とおぼしき細かい英語字幕が表示されているが、ステージからの距離や表示スピードの都合で、僕にはほとんど読み取ることができなかった。推測するに、後に映像化されるまでほとんど読ませる気がない飾り文字なのだろう。

さらに言えば、一連のナネットさんとのやり取りは台詞によるシャレードなのだ。つまり、台詞そのものの意味ではなく、その裏にある文脈から類推して、製作者が伝えたい真の意味をつかみ出さねばならない。

どうだろうか。このあたりで結論を出したい。
果たして、「ネイルを見せる人がいない」という台詞は、なにを暗示している──すなわち、どんなシャレードなのだろう。

簡単である。
見せるべき人間がひとり残らず全滅している・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、ということだ。


僕は今回のブリッジムービーは「なんらかの理由で水樹奈々演じる研究者以外の人類が死滅した世界」だと捉えている。
だとすると、水樹がひとりポッドのなかにいることにも納得できる。外界は汚染されているor人間にとって暮らしづらい環境なのではないか? 

すなわち、ブリッジムービーは人類が絶滅するまで長き眠りについていた水樹がようやく目覚めて、世界を復活させるため──自然環境を人間に適合させるまでの研究を描いた作品なのではないだろうか。なるほど、水樹はMCのなかで「LIVE JUNGLE」のテーマは「融合」であるとたびたび語ってきた。文明と自然の融合。

僕は一連のムービーを観ていて、つい最近配信ドラマ化された傑作ゲーム『fallout4』を思い出した。あの作品は核戦争によって荒廃した世界でたまたま自家用シェルターを買っていた主人公が目覚めるところからはじまる物語だった。水樹チーム、『fallout4』でも観たんかな。なんにせよ、僕は「LIVE JUNGLE」は水樹なりの終末ものポスト・アポカリプスではないかと思うのだ。

だとすると、だ。

ブリッジ・ムービーにおいて暗号が解かれたあと、水樹が滞在するポッドの根元より大樹が伸びて、まるで屹立するタワーのようになる。

そのエネルギーを受けて、アーティスト・水樹奈々はふたたびステージに舞い戻ってくるのだが──そして、ここで水樹はまるでタワーの頂上にいるかのように・・・・・・・・・・・・・・巨大なクレーンの上で歌うのだ!――冒頭で触れたとおり、今回のステージは「JUNGLE」というテーマを反映して、たくさんの樹木が繁茂するステージになっている。

中央にはまるでクリスマスツリーのような大樹が鎮座している。なおステージ上にところ狭しと並ぶほかの草花は水樹いわくすべて生花であり、これは事前に公式サイトで発表した企画"フラスタ on Stage!!~皆さまからのお祝い花をステージに!!"によって集めたファンのカンパで生花、木、植物が設置されているそうだ。よく言えば(!)、ここにもファンの気持ちがステージに実体的に融合する様が見て取れる。

※この点、実質の集金システムが導入されたことに関して、昨今跳ね上がっているチケット代との関連で意見がないでもないが、本筋とはそれるので深入りはしないでおく。

さて。

いまここまで考えを巡らせてきたテキストは、おそらく僕の単なる妄想に過ぎない。しかし、シャレードによって、ああでもないこうでもないと多様な読み解きができる――これこそがすべてのコンテンツの醍醐味ではないかと思うのだ。みなさんの「LIVE JUNGLE」理解のなんらかのたたき台となれば幸いだ。

それにしても……
いやあ、「LIVE JUNGLE」楽しい!

(終わり)



(追記あるいは修正)
上のテキストは多少の修正はあれど、おおむね仙台2日目の公演前に書かれたものだ。ここから先は2日目が終わった帰りの新幹線でハイボール片手にカチカチキーボードを叩いて生まれたテキストである。

いろいろとムービーについての意見を述べた手前、本日の公演ではこれまで以上に映像の中身について注視した。そうしたとき、散々っぱら書いてきたテキストはすべて間違いかもしれないと思った。その時点でテキストはすべてお蔵入りしてもよかったのだが、思考の過程を見せるという意味で、そのまんまお出ししてもよかろうと判断した。

ではなぜ、自分の読み解きがすべて間違いかもしれないと思ったかといえば、席位置が近かったこともあり、前述したオープニングムービで表示される英語字幕を一部だけ読み取れたからだ。

流れる字幕の単語をなんとか拾うに、なんらかのエネルギーを研究していることは間違いなさそうである。ここは水樹のMCにもあったとおりなので、特段の驚きには値しないのだが、わけてもひとつ気になる文言を発見した。それは「7th planet」というものだ。7番目の惑星。なるほど、これは入植なのではないか。

水樹がポッドのなかで孤独に研究しているのは、なにもほかの人類が絶滅したからではなく、人が住める新しい惑星(7th planet)を発見し、そこでの人間社会構築のための実地調査、研究を行っているからではないか。あるいは7th planetで発見したエネルギーを我々の1番目の惑星――すわなち、地球に持ち帰るためかもしれない。となると、水樹が乗っていたポッドは厳しい環境から身を守るための「シェルター」ではなく、地球から旅してきた「宇宙船」なのかもしれない。なお、「宇宙」は水樹奈々世界において頻出するモチーフのひとつである(そのものずばり「LIVE GALAXY」という公演もあった)。

ここまで来たとき、僕はあるひとつの外国映画を思い出した。今回のムービーはいろんなコンテンツのことを想起させられる。それはいいコンテンツが出すひとつの目印である。

思い出したのは、水樹自身がヒロインの吹き替え声優を務めた『パッセンジャー』という映画だ。あれはたしか植民星への宇宙移民の旅の過程で、コールドスリープから目覚めてしまった主人公の物語だったはずだ。となると、「LIVE JUNGLE」に『パッセンジャー』へのオマージュ――あるいは水樹へのなんらかのインスピレーションを与えた可能性も、ないとはいえないのだろう。

さらにいえばもう少し大胆に想像の翼を広げてみると、1968年の傑作SF映画『猿の惑星』にまで到達する。『猿の惑星』はある意味で、『パッセンジャー』的な状況設定がルート分岐したひとつのクライマックスであった。

『猿の惑星』はそもそも、宇宙飛行士が地球に帰るために長いコールドスリープにつくが、なぜか目覚めると「しゃべる猿」が「野生化した人間」を支配する”猿の惑星”に到着してしまうという話だった。

そして、ラストにおいて倒壊した自由の女神によって、”猿の惑星”こそが”遥か未来の地球”であることがシャレード一発であきらかになる映画であった。人類文明は核戦争によって滅び去るのだ。

僕がなんでこんな想像をしたのかといえば、そもそもリブート作品を含む「猿の惑星」シリーズで描かれるポスト・アポカリプスの未来像は「荒廃した地球」ではなく、さらにそこから時代がくだった「自然化して再生しつつある地球」だったからである。

文明はすべて草木に帰り、そこからゆっくりと悠久の時をかけて再生する。その過程の世界。アニメでたとえると、『∀ガンダム』的なビジョンとでも言おうか。そうだそうだ、あれも宇宙に出た人びとが地球への帰還を目指したことに端を発した物語だったはずだ。

となると、7th planetの正体はもしかして……?
そして、それを目撃する”観客”とは……?

──いや、さすがにそれは妄想がすぎるだろうか。

(ほんとの終わり)

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