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ACIDMANの歌詞の意味がわからない。/2019年12月12日


ACIDMANのライブに行った。
いちどフェスで観たことはあるけど、ワンマンライブは、はじめて。

ACIDMANは、スリーピースバンドだ。
2002年にメジャーデビューして以降、着実にリリースを重ねている。
J-ROCKの世界では、まあまあのベテランといっていいだろう。

彼らにぼくが出会ったのは、2009年のこと。
その年のアルバム『A beautiful greed』の先行シングル「CARVE WITH THE SENSE」がFM802から流れてきて、ぶっ飛んだ。

めちゃくちゃカッコいい。

思えば、僕が現在まで音源を追いかけているアーティストの多くは、大阪のラジオ局・FM802を介して出会っている。
noteでも何度か書いているとおり、中学〜高校くらいまでのぼくは、かなり熱心なラジオリスナーだったのだ。

はなしがそれた。ACIDMANである。
とにもかくにも、ぼくはそのストイックなバンドサウンドと、独自の歌詞世界に撃ち抜かれたのだ。

ということで、以降のアルバムはなけなしのバイト代で購入して、過去作もレンタルなどを駆使して、聴いていた。

しかし、ワンマンライブに行く機会はなかった。
こう書くと、まるで日程が合わなかったみたいに聞こえる。そうではない。
昔もいまも、ぼくは大して忙しくない。というか、スケジュール帳が予定で埋まることを嫌うタイプだ。

だから、参加がここまで遅れたのは、ひとえにぼくの怠惰による。

しかし休職中、ぼくは不意に思い立った。
そうだ、ACIDMANのライブに行こう、と。

ぼくは今年の夏ごろから10月の末まで、仕事をおやすみしていた。現在は復帰している。
そして、復帰のタイミングが決まった10月の中旬ごろ、発作的にライブチケットを購入したのだ。

それはぼくなりの社会復帰のための儀式だったのか、それとも単なる景気づけにすぎないのか。
そのあたりはよくわからない。

とにかくぼくは、2019年12月12日、新木場スタジオコーストへと赴いた。

今回のライブツアーのタイトルは「創、再現」。
ACIDMANのメジャーデビューである『創』のリリースツアーを、そっくりそのまま再現しようという趣旨である。

アルバムもツアーも2002年なので、17年越しの再現ということになる。
前述のように、ぼくは2009年からのリスナーなので、いわゆるリアムタイム世代ではない。

けれども、ある種のタイムカプセルとして、楽しめた。
ほかのアーティストもやればいいと思う。

ぼくの最推しである水樹奈々でいえば、「NANA MIZUKI LIVE "ATTRACTION 2002"」とか。
めちゃくちゃ盛り上がりそう。

話を戻す。当然のごとく、ライブは古い楽曲中心になる。
例外をいえば、アンコール。
2002年当時のアンコール3曲を本編ラストに持ってきているので、アンコール2曲は自由に選曲していた。

そのひとつが未発売の新曲「灰色の街」だった。
決して恵まれない状況下においても、前を向こうとする強さと希望と光を歌った曲である。
これを聴いたとき、ひとつの気づきをえた。

ACIDMANの歌詞って、だいぶわかりやすくなったんやな。

ACIDMANの特徴のひとつに、「独特な世界観をもつ難解な歌詞」があげられる。

生と死、世界、未来、時間などの壮大なテーマを、フロントマン・大木伸夫特有の抽象的な語彙で表現する。

結果、なんとなく聴いていてはなんのこっちゃかわからない歌詞が顕現する。
まあ、歌詞カードとにらめっこしても、よくわかんないだけど。

しかし、考えてみれば当然である。
大きなテーマを抽象的な語彙で説明するのは、本来は哲学の領分だからである。

なんであるが、「灰色の街」ーーというか、近年のACIDMANの楽曲は、ややわかりやすくなっている。
といっても、昔のACIDMANとくらべての「やや」なので、ほかのアーティストよりは、あいかわらず難解なのだが。

なんというか、各楽曲の「視点」が定まった感じだ。何者かの目から見えた世界が歌われているというか。

初期のACIDMANにはそんな視点がなかった。少なくとも、視点は目立たなかった。
世界を世界の視点のまま、語っていた。
※もちろん例外はある。あくまで、比較論である。

人物の視点を介すことで、完璧な抽象は若干、具体へと降りてくる。
ぼくたち自身の問題に落としこまれる。

だから、わかりやすいのかな、と思った。

もちろん、ぜんぶがぜんぶ、そうではない。
抽象/具体の問題以前にそもそも、意味をとること自体を拒否している楽曲もある。

たとえば、『創』にも収録されている彼らの代表曲「赤橙」とか。

かっけええ…………!

もちろん、ライブでも披露されて、バッチリ喰らいました。

で、歌詞はこんな感じ。

眠りの浅い朝の回路 埃にまみれてるカイト
フワフワの音が眠ってる
そこはかとなく日々は続き
左利きの犬がまさに 片足引きずり笑ってる

…………は??????

いや、ひとつひとつのワードはわりと平易だ。
くり返すが、抽象/具体の問題ではないのだ。
言葉自体は簡単なのに、それらの関連が見出せない。
ひとつのストーリーを紡げない。

終始、こんな感じの歌詞がつづく。
ぜんぜん意味がわからない。

けれど、不思議なことにライブで聴くとやたらと泣けてくる。
神々しいものにさえ、思えてくる。

なんでだろう。
と、泣きながら聴きながら考えていて、気づいた。

これは、絵画なんではなかろうか。

ぼくは歌詞をどちらかといえば、文章として捉える傾向がある。
伝えたい情報があり、描きたい物語があり、それを支える論理がある。
だから、読み解き、再構成して、説明しようとする。

しかし、「赤橙」はそうではない。
そこには、絵がーービジョンがあるだけだ。
説明やロジックはない。
ただ、"ある"からあるだけの。

たとえば、このへんとか。

そして少年は一握りの
オレンジ色の砂を蒔いた
黄金色に輝く音を いつか奏でよう

やっぱり意味はわからない。
黄金色に輝く音ってなに。

けれど、絵は見える。
そして、その絵は美しい。不思議と。

その絵自体に、感動するのだ。
直感的なというか、なんというか。

けれど、それを言葉で説明することはできないのだろう。
それは、論理の領域だから。

ぼくのアプローチとはまったくちがう。通用しない。
ゆえに、惹かれる。

いいライブでした。

(終わり)


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