バカ って言うのをやめた日
小学1年生のある日を境に、私は他人に「バカ」って言うのをやめた。
今でも覚えている。学校で、給食の時間だった。
たわいない会話の中で、同じ班の女の子の頭を叩いてしまったのだ。「バカだなぁ」って言いながら、ポンポンと。
軽い気持ちだった。けれど、女の子は顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。私は狼狽えた。
周りの視線が私とその子に向く。
「ごめんね、ごめんね…」
ただオロオロと謝ることしかできない私。
体中にショックが駆け巡った。
その子を泣かせてしまったこと。自分が、誰かを傷付けるような人間だと知ったこと。それを知ったところで、狼狽えることしかできない無力さ。
そして幼心に学んだ。一度放った言葉は取り消せないということ。自分にそんなつもりが無くとも、言葉はナイフになるということ。
気づいてないだけで、きっと自分は今までにもこうやって何度も誰かを傷付けてきたのだろう。今回は女の子が泣いたから気付けただけで。
なんて愚かなんだろう。バカは自分の方だ。
その日から私は、「もう人にバカって言わない」と心に誓った。冗談でも、軽くでも。人の頭を叩くのもやめた。
今思えば少し極端な気もするけれど、幼い私には0か100か、白か黒かに振り切ることがベストな選択に思えたのだ。
女の子は優しかった。特別仲がよかったわけではないけれど、たまに話しかけるといつもニコニコと微笑んで私の名前を呼んでくれる。その笑顔に私は救われていた。許されたような気持ちになっていた。
でも、その一方でいつまでも自分を許すことができない自分もいて。
「もう人にバカって言わない」というその誓いの中に「自分」は含まれなかったことがその証拠かもしれない。
人には言わないけど、自分にならいいよね…?
正確には、「私のバカ」なんてどストレートな言葉で自分を攻撃することはほとんどない。
それでも私は、「バカ」という言葉は使わずに自分で自分を馬鹿にした。見くびった。蔑んだ。
謙遜という名の自己卑下でひっそりと自分を傷付けていた。いや、守っていたのかもしれない。
こんなこと言ってるけど、自己肯定感は高い方だと自分では思っている。多分。
どんなに自分が嫌になっても、最終的には一周まわってそんな自分もひっくるめて生きていこうという思考に落ち着くから。
だけど時々、どうしようもなく自己否定的な自分が顔を出す。
自分を大切に扱う自分と、自分を粗末に扱う自分、相反する2人の自分が確かに共存していて、その時々でどちか強い方が顔を出すのだ。
例えば、誰かに優しくしてもらったとき。びっくりするほど嬉しい言葉をかけてもらったとき。
心の底から嬉しくてうれしくてたまらない自分がいる。その優しさを、言葉を、素直に受け取り両手で包んでぎゅっと抱きしめていつまでも大切にしたいと思う自分。
嬉しかったことや嬉しかった言葉はふとした瞬間に何度でも思い返してしまうもので、そのときにたまたま「自己否定的な自分」が強く出てきている状態だと、どうなるか。
こうなる。↓
自分なんかにこんな言葉もったいない…
そんな素敵な言葉を自分にかけてくれる人がいるわけない。
浮かれちゃって、恥ずかしい。からかわれてるんだよ、騙されてるんだよ、じゃなきゃおかしいよ。そーだそーだー!
…といった具合に頭の中の自己否定的な自分がやんややんやと騒ぎ立てるのだ。
こうやって文字にするとなかなか最低だ。
相手のやさしさや言葉を素直に受け取れないのは、私がどうしようもなく臆病だから。
きっと本心から言ってくれてるはずなのに、本当はうれしいのに、疑ってしまってごめんなさい。こんな私でごめんなさい。あなたのせいじゃなくて、私の問題なんです。
自分を肯定する自分、自分を否定する自分。どちらも自分だから、自分ですら困る。
昔、大好きな友だちが孤独に飲み込まれそうになっていた。
殻に閉じこもり呟いた「どうせ私のことなんて誰も」
その言葉に寂しさを覚えた。
ああ、その子にわたしは「見えていない」のだ。
私の存在はその子にとって、取るに足らないのだ。
仕方ないよね、仕方ないよね。
あなたを思っている人間がここにいるよ って声をかける勇気も、壁やドアを打ち破って飛び込んでいく勇気も大抵ない。
だいたいドアの前で立ち尽くすか、身を引くか。
かと思えば、なりふり構わず突っ込んでいって傷だらけになることもある。
人とのちょうどいい距離感が分からない。近付きすぎたり、離れすぎたりしてしまう。
傷付けるのも、傷付くのも怖いからいつも中途半端で。
心を閉ざしているあなたに、どうやったら声が届くのだろう。あなたを大切に思っている人間がいると、どうやったら伝わるのだろう。信じてもらえるのだろう。そもそも私がそれを伝えていいのかな。
自分が好きな、応援しているクリエイターさんが自分で自分の作品を卑下しているのを見たときも同じようなやるせなさを覚えた。
「あなたの作品が好きです」と伝えたいつかの私の声は、その人の心には届いていなかったのかもしれない。
もしくは、私1人の声だけでは足りなかったのかもしれない。
その人が自分や自分の作品を卑下するたびに、「あなたの作品が好き」という自分の気持ちまで一緒にぐしゃっと潰れるような感覚になった。
でも、ある時ふと気付いてしまった。
待ってよ…?これって私も一緒なんじゃないの…?
やさしさを素直に受け取れないのも、自分や自分の生み出すものを褒められて謙遜するのも、私だってついやってしまったことがあるじゃないか。
謙遜という名の過剰な自己卑下は、巡りめぐって誰かを傷付け得るのかもしれない。
自分なら馬鹿にしてもいい、傷つけてもいい。そんなのとんだ間違いだった。それこそ「大馬鹿野郎」だった。
自分を馬鹿にするのは、もうやめよう。
他人からの応援の声ややさしさを、正しく受け取れるようになろう。そう思った。
もちろん実際そんなにうまくはいかないけれど。
でも、意識していなかった頃に比べれば自分のことも周りのこともよく見えるようになったと思う。
本当に自分を大切に思ってくれる人の声や、自分自身を大切に思う自分の声がよく聴こえるようになったと思う。
そうやって私は少しずつ少しずつ、他人だけでなく自分も大切にできる自分を育てていった。
自分を卑下しようとする自分は完全にいなくなることはない。追い出すつもりもない。
「慢心しそうになる自分」のストッパー的存在でもあるから。
だからどっちもいていいよ私の中に。そう思っている。
バランスが崩れて、自分で自分をとことん追い詰めてしまうときもある。
心で思ってしまうのはどうしようもないから、せめて人の目に見える場所では言わないようにと心がけている(たまにポロっと言っちゃってるかもしれないけど)
褒められたら、「ありがとう」「嬉しいです」と返す。
(…えっとこれは思ってないのに嘘をつくというよりは、嬉しいんだったら恥ずかしがらずそれを伝えるっていうニュアンスで)
自分では自信がないときでも、きっと相手は本心からそう言ってくれているのだと信じる。そうやって伝えてくれた、相手の思いを大事にする。逆の立場だったら、寂しいもんね。
頑張っても思うような結果が出ないとき、自分に自信がもてなくなるとき、自分で自分がいやになるとき、それでも自分を見てくれる人のことを見失わない。
どんなときでも、他人の真のやさしさに気付ける自分でありたい。そして、そのやさしさを正しく受けとることのできる自分でありたい。
幼い頃から「創作」や「表現」と呼ばれる類のことが好きだった。
絵だったり、工作だったり、文章だったり、料理やお菓子作り、音楽…etc. その時々で形を変えながらもずっと創作をつづけてきた。
私は特に何者でもないけれど、そんな私の生み出したものでも「好き」だと言ってくれる人たちがいた。
私や私の生み出すものを好きだと言ってくれる人が、応援してくれる人が、信じて待っててくれる人が1人でもいるのなら、やっぱり折れたくないと思うし、「私なんて…」ってそんな姿見せちゃダメなんじゃないかって思えてくる。
これらはあくまで「自分にとって大切なこと(大切にしたいこと)」で、他人に対して「目に見えるところで愚痴や弱音を吐かないで」と言いたいわけではないです。
愚痴や弱音に勇気?をもらえることって実際あるし。自分だけじゃないんだなって安心するというか…。
いろんな人がいる世界だから、いろんな考えや発信があっていいよね。
その中で私は「これ」を大切にしていきたいというだけの話。
でも、本音を言えば…
私が好きな人や大切な人たちには、自分や自分の生み出すもののことを好きでいてほしいなって、思ってる。それが我儘だとは知りつつも。
「バカ って言うのをやめた日」のことは、今の私を形づくる重要なエピソードのひとつ。多分それはこれからも変わらない。変わらないけれど、変に拘りすぎなくてもいいんじゃないかと最近は思っている。
「大切にしたいこと」は、その時々で変化してきた。
例えば昔「ため息をつくと幸せが逃げる」と聞いて頑なにため息を封印していた。
けど、今は全然ため息をつく。ため息をつくことで気持ちが落ち着くこともあるし、なんなら最近はため息ついてばっか(それはそれで、だけど。でもなるべく人には聞こえないとこでする…かな)
最近だと、「死」という言葉への抵抗が薄れてきたのも変化のひとつ。
漢字が纏っているネガティヴなイメージに引っ張られる感じがするから、漢字で書けずにいつも「し」とひらがなで表記してきた。
でも、「死」に向き合うことは「生」に向き合うことでもあるのだと私の中で認識が変わってから、漢字で表記することに抵抗がなくなってきてる。
そんなふうに、もしかしたら「バカ」って言葉もこれからは使う日がくるかもしれない。
自分や誰かを傷付ける以外の目的で、使う必要があるのならそのときは。手札のひとつとして、加えておいてもいいのかもしれない。
小学1年生のあの日の私は、とっくに成長してたんだ。
0か100かじゃなくて、白か黒かじゃなくて。少しずつ混ざり合っても、矛盾してても、そんな自分でもいいやと思えるようになっていたんだ。
私は、自分を卑下してしまう自分のことも、自分を大切に思う自分のこともひっくるめて好きでいたい。そして、そんな私を好きでいてくれる人の思いも大事にしたい。
これが多分、今の自分にとっての大切なこと。そんな感じ。
それでは最後に聴いてください、瑛人で『僕はバカ』
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