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どうして「長編小説」なのか #野心日記9


長編小説に挑戦しています。文学賞に応募するために。
この『野心日記』では、今までにもそんな挑戦の過程を日記のように綴ってきました。

「文学賞で受賞して、その賞金でわが家の借金を完済して生活を立て直す」
そんな突拍子もない野心を抱いてしまってから、2年?経ち、もうすぐ3年目に突入しようとしています。
(ちなみに現在、私も夫もそれぞれ収入はあります)

進展状況は…… あまり良いとは言えません。わるくもないと思うけれど。
登場人物のキャラクターやその背景は日に日に深くなって、まるで本当にどこかで生きているような気さえします。
ストーリーも映像として、頭の中に思い描くことはある程度できています。
でも、それを文章(小説)という形に落とし込むことが私にはなかなか難しくて苦戦中……。

未だほとんど形になっていない事実に焦りを感じないわけではありません。
ここまで形にできないのは、小説という表現方法が向いていない可能性もあります。
そもそも、今まで小説を書いたこともない人間がいきなり長編だなんて無謀なのかもしれません。
(これは決して長編より短編の方が簡単だとか、優劣の話ではないですよ)

もし完成したって、無名の人間が書いた長編小説に誰が興味を持ってくれるでしょうか。
長編にこだわらず、まずは短編でも「完成させる」こと、そして公開して「読んでもらう」こと、「反応をもらう」こと、そうやって「知ってもらう」ことが大事なのかもしれません。
不完全でもたくさんの経験値を積むことが、きっと「近道」だと思うのです。

だけど私は長編小説に挑戦したい。
それは、私が小説を書きたいそもそもの目的にあるような気がしています。
「生活を立て直す」ことも確かに目的のひとつだけれど、それだけではないというか。
というかそれだけが目的なら、もっと他に確実な方法がいくらでもあるはずで。

実はまだ、公にしていない目的がいくつもあるのです。
それを叶えるために、私は書き続けています。

あと私、短距離走は50メートル12秒とかだったけど、長距離走は得意なんです。だから、長距離型なのかなって。あんまり関係ないかな。


もしも、長編小説を完成させることができたら。
もしも、もしも文学賞で入賞することができたら。

その後は、なるべく穏やかに過ごしたい。
こんなこと言うと本気で小説家を目指している方に叱られそうですが、私は小説家になりたいわけではないのです。
かと言って他に何かなりたいものがあるわけでもありません。
文章を書くのは昔から好きだし、これからも書き続けるでしょう。
できることならこのまま何者でもないまま、好きな文章を書き続けていたいと思うのです。

こんな弱腰な生き方じゃダメでしょうか。
たたかう気のない人間じゃ、この世界で生きていけないでしょうか。


長編小説を完成させる。
それが一番の目標であることは、今でも変わりないです。
でも、絶対に長編以外は書かない!と頑ななわけではありません。
実際、今書いている長編も2つや3つに分裂させた方がスッキリするのでは……?と思うことが増えてきました。
このまま長編1本にまとめ上げるのか、長編2つにするのか、長編と中編にするのか、長編と短編にするのか、どうなるのか、自分でも分かりません。
でもこれは、やってみたからこそ見えてきたこと。
それにちょっと、ワクワクすること。

今後、こぼれたエピソードから短編が派生することもあるかもしれないし、そのときはnoteでも公開してみようかななんて思ったりしています。


先日投稿したnote『夢と現実の間(あわい)』は、その片鱗のようなものだったかもしれません。


今までこういう文章はnoteでも、その他の場所でも見せたことがなかったので正直ちょっと緊張しました。
いろんな部分が曖昧で、解釈を読み手に委ねるような文章なので、どう受け止めてもらえるのか未知数で。
案の定、最初は全く反応がなかったので、ありゃりゃやっぱり意味不明だったかな……?と不安になったりしてしまったけれど。
(最初の「スキ」が届いた瞬間、いつも以上に拝み倒した)

その後、肯定的な感想をいただいたり、シェアしてくださる方がいたり、どこから見つけてくださるのかほぼ毎日のように「スキ」が届くようになって、じわじわと読んでいただいてて。
正直、自分でも予想していた以上に反応をいただいて嬉しかったです。
「受け止めていただいてるなぁ」という喜びを噛みしめています。

これが、読み手を信頼するってことなのかな……?
説明しすぎなくてもいい。
曖昧なままでもいい。
意味不明でもいい。
そんな文章でも受け入れてもらえたというのは、私にとって新しい感覚でした。


ずっと誰にも見せないまま小説を書き続けていると、目指す方向はこっちで合っているのかなってふと不安になることがあるんです。

例えばの話だけれど、悪役を登場させるのか否かとか、明確な死を描くか否かとか、描くならどういう表現でとか、これを書くと誰かのトラウマを抉ってしまうかも……でも避けて通るのはどうなんだとか。
なるべく読む人の負担にならないような優しい物語でありたいけれど、そこに本当に書きたいことはあるのかとか。
どうしても深く潜ってしまったり。どんどん逆の方向へ行ってしまったり。
そういうことをたくさん考えて、選択を繰り返して、最終的にどういうバランスにするのかとか。
そしてこの物語は、登場人物たちは、読み手にちゃんと届くのだろうか、愛してもらえるのだろうか…… って。
そもそも私自身が不完全な人間だから、自信がなくなってしまうのです。

でも、「いつもと違う文章」も受け入れてもらえたという実感が、ひとつの自信に繋がりました。とても励みになりました。
大丈夫、そのまま書き進めていいよって。自分に言ってあげられることが増えました。


未だ完成が見えてこないけれど、なんだかんだで2年間ずっとこの気持ちが続いているのは単純にすごいなと思っています。
小説のことを考えない日はないし、小説に挑戦すると決めた日からは「目に映る全てのことはメッセージ」状態で。
子どもたちとアニメを見ていても、通勤途中に道端に置かれたコーンポタージュの空き缶を見ても、何を食べて、聴いて、触れて、感じていても、そのすべてが小説を彩る大切な要素になっています。

一行では無理でも十万行ならどうか
一日では無理でも十年を経たならどうか

(独白/amazarashi)


日々、やらねばならぬことや向き合わねばならない現実があって。本来なら自分の夢とか二の次で。
無理じゃん……って思うけれど、無理かもって弱気になる度に思い出すんです。

何度も諦めそうになりながら、初めてnoteを書き上げた日のことを。
何度も心折れそうになりながら、初めて音楽文を書き上げて投稿した日のことを。
(しかもこれらについては結果?も伴っていたり)


簡単な道のりじゃないのは承知の上だから、人と比べて焦る必要はないし、すぐに結果が出なくても嘆く必要はない。
自分の中の、書き上げたいという気持ちがつづく限りは何年かかっても完成させたい。

と言いたいところだけれど、本当はちょっと焦った方がいいことも分かっています。
(焦れないのは、私の長所でもあり短所でもある)

子どもたちも、上は春から小学6年生。妹も年長さん。この1年が終われば中学生と小学生です。
子どもの成長は、早い。

それに、小説を読んでほしい人たちもいる。読みたいと言ってくれる人たちもいる。
だけど、人の気持ちも、命もずっとつづくわけじゃないことを知っているから。
その人たちがなるべく側にいてくれる間に、読んでもらえる間に、完成させたいのです。


あと、以前はすごい漫画や本を読むと、こんな素晴らしいお話が書ける作者さんはどれほどの人格者なんだろう……とか、なんて頭がいいんだろう……と感心して「自分には出来そうにないなぁ」と思っていました。
でも、自分で物語を書くようになって気付いたのは、物語も登場人物も自分以上に成長していくんだなぁということ。
こんな私から生まれても、全然私を超えていく。不思議なことに。
いや、むしろ欠けているからこその「こうありたい」という願いがそうさせるのかなぁ。

物語や登場人物たちがどうなっていくのか自分でも予測不能で、それを見届けたいからなんとか書き上げたいなって気持ちです。


私が長編小説に挑戦する理由。
本当の、いちばんの野心はまだ誰にも言わないでとっておく。
心の底に、静かだけど大きな野心が、青い炎のように揺らめいているから。
その灯が消えない限りは、やってみようと思うのです。

とはいえ、完成しなければただの戯言になってしまうのでがんばって完成させなきゃね。



【おまけ】
とある日のひとこま

前回の野心日記で、「小説を書きたいけど、小説が読めない」と言う悩み?について書きましたが、最近、紙の本をまた読めるようになってきました。

去年の6月から読み始めた『銀河鉄道の夜』を、1ヶ月ほど前にやっと読みきることができたのです!
(いくつかの短編が収録されていて、その中の『銀河鉄道の夜』だけまずは読みました)

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それをきっかけに、いろいろ、少しずつ本を読めるようになってきました。
本を読む楽しさを、再び感じられるようになりました。私にとってうれしい変化です。

小説だけでなく、動物や植物の生態について書かれた本、絵本、漫画なども読んでいます。
読みながら、心に響いたシーンに付箋をペタペタ貼ったりもしているのですが、昨日とある漫画を読んでいたら思いがけずホラーなシーンに出くわしてしまって。
私はホラーが苦手なので、反射的にその箇所に付箋を貼って隠してしまいました(ちょうど付箋に収まるサイズ感だったので)

付箋の新しい使い方、発見した気がします。

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