日記のようななにか
ここ1ヶ月ほど、ぽっかりと空いたnoteの更新。
特に何かがあったわけでもなく、かと言って何もなかったわけでもないのだけれど。
今まで、平日にちびちびと書き進めたものを土日で仕上げて投稿…… という、なんとなくの自分のペースみたいなものがあったのですが。
書きたいことは相変わらずたくさんあるし、「書くのが苦しい……」というスランプ的なものでもない感じです(note以外ではぼちぼち書いていたし)
自分でもよくわからないけど、今はそういう時期なんだろうな、そういう時期もあるよね〜…… くらいの気持ちでいます。
今年のうちに今年よく聴いた音楽のこととかまとめたかったけれど、残り日数と私の筆のスピード的に、この日記のような何かが年内最後のnoteとなりそうです。
最近、と〜っても久しぶりに紙の本(小説)をまるまる一冊読み切ることができました。
10年ぶりくらいかな?
あんなに、どう頑張っても読み進められなかった小説というものを、3日(3晩)で読了できました。
久しぶりの第一歩が、この本でよかったな。
これ以上は長くなるので、また改めて感想文としてここに投稿できたらと思っています。
ときどき、生きていけるか不安になります。物理的に。というか金銭的に?
そもそも結婚してからの12年ほど、家計が安定していた時期なんてないのだけれど……。
今年の7月に、流行りのウイルスに夫婦で罹ってしまいまして。収入がガクンと減りました。
子どもたちと、同居のお義母さんには感染しなかったのだけれど、濃厚接触者となるのでお義母さんも仕事に行けず、収入がガクンと減りました。
生命保険が下りたのはありがたかったけれど、夫やお義母さんは該当せず私の分だけだったので、月々の支払いであっという間に底を尽きてしまい……
(それでも、本当にありがたかった)
もともと綱渡り状態だった経済状況はさらに厳しくなっていき、払えない料金が積み重なり、滞納がつづき、ついにはライフラインが止まりそうになったり。
収入と支出を照らし合わせて、どう頑張っても足りてない現実に頭を抱えたり。
今月を生き延びれば、なんとか。12月まで生き延びれば、なんとか。
そうやって希望を抱いて、自分を励ましながら生きてみるけれど、なんとかなるはずのものはなんとかならなくて。
どう足掻いても、足らないものは足らなくて。
お給料日が来ると同時に、次のお給料日を指折り数える日々。
広い海で溺れそうになって、目指していた島まで泳いで辿り着いても、掴んだ島はあっけなく崩れて消えてしまう。
そして、また次の島を求めて泳ぎつづける。そんなイメージ。
いつになったら、休めるのかな。
いつになったら、安心できるのかな。
次も その次も その次もまだ目的地じゃない〜♪ ってサカナクションの『新宝島』が聴こえてきます。
コミカルな歌だと思っていたけど、歌詞をじっくり見ると切実な感じ。
年が明けてしばらくしたら、お義母さんは還暦、そして定年を迎えます。
春には子どもたちは中学生と小学生。
これから、どうやって生きていこうか。
30代で、子どもが2人いて、貯金がゼロだなんてね、情けないです。
12年間、ずっとこんな調子です。安定した暮らしがほしいな。
それでも、こんな人間でもなんとか生きようともがいています。
今年、amazarashiのライブに行けたのは本当に幸運でした。
夫のボーナス月で一瞬の潤沢〜疫病に感染して家計が崩壊するまでの束の間。
ギリギリの隙間を縫ったタイミングでの申し込み、そして当選でした。
もともと延期になっていなければ行けなかったはずの公演だし、チケット再販の時期があれより前でも後でも、諦めざるを得ませんでした。
ライブが始まってすぐ、「ここに来られてよかった」って感謝と涙があふれてきたあの感覚を忘れずにいたい。
わがままを許してくれた家族(夫)には感謝しています。でも、ライブ前後の些細な言動から、やっぱり私なんかがこんな贅沢しちゃいけなかったんじゃないかって気がして、「ごめんなさい」と落ち込みました。
(だからあのとき、私がライブに行けたことを喜んでくれる人たちの存在にとても救われた)
本当は、こういうことを書くのはあんまり良くないのかなと思う。心配をかけてしまうから。気を遣わせてしまうから。
しあわせで穏やかな周りの雰囲気に水を差したくないから。
それに私自身、どこへ行ったとか何を買ったとか、言いづらくなってしまうから。
お金がないって言いながら、そんな贅沢してるじゃん、無駄遣いしてるじゃん って。そう思われるのが怖いから。
今のところ、そんなことを直接言う人には会ったことないけれど。
それどころか、私が好きなことをしている様子をいっしょに喜んでくれる人の方が多いのです。
以前、ある方のブログに「◯◯さんにはまだまだ好きなこといっぱいできるよう、元気でいてほしい!」とコメントを送ったことがあります。
送ったあと、少し後悔しました。
元気でいてほしいなんて、エゴだよな。
私がその人の身体と代われるわけでもないのに、無責任。余計なお世話だったらどうしようと…… と。
けれどもお返事には、「それこっちのセリフ!」って。
「ひとさんには思う存分好きなことをしてほしい!
陰ながらいつも、ひとさんが好きなことできてるか見守ってる」って。
「ひとさんがライブとか行ってるの見ると◯ぬほど嬉しい」って。
そう書かれてありました。
うれしくてうれしくて。
そのとき私は思ったんです。
やっぱり、好きで大切な人たちには安心してほしい。あまり心配をかけたくないな って。
おいしいものを食べて、好きなことをして、好きな場所へ行って、ほしいものを買って、自分を大切にして。
そういう姿をたくさん見せたい。「ひとさんよかったね」って、安心してもらいたい。
なのに、なのに。
表向きの「大丈夫」と現実のギャップに苦しくなって、すべてを吐き出して叫びたくなるときが未だにあります。情けないなぁ。
ちょっと前からTwitterで、今まで(過去10年分くらいかな)に作ってきたお菓子の写真を少しずつ投稿して、まとめています。
あれはもともと、Twitterでものすごく暗いことを呟いてしまいそうな時期があって、それを日々なんとか耐えて耐えて飲み込んでいて。それでもいつか、はち切れそうで。
何か、暗いことの代わりにつぶやけるものを…… と思って始めたのでした。
(そんな重い背景知りたくなかったわい、と思われたらゴメンナサイ)
始めてしまったら特にそんなことは考えず、懐かしいなぁとか、写真をまとめておける場所がほしかったからちょうどいいなぁとか、そんな気持ちでつづけているのだけれど。
クリスマスが来るたびに思い出すのが、何年か前のボンビークリスマス。
「ボンビー」って、今時なかなか聞かない言葉ですよね。
ボンビーっていうのは、貧乏の親戚みたいな言葉で。
小学生のときの友だちいわく、暗い貧乏が「貧乏」で、明るい貧乏が「ボンビー」なのだそうです。そうなの?
何年か前のクリスマス(12/25)=夫のお給料日。
ああ、やっとこの日までたどり着いた。これで、わが家もクリスマスを迎えられる…… と足取りかるく銀行へお金を下ろしに行ったところ、通帳の預金残高がほぼゼロで愕然としたことがありました。
なんてことはない、ずっと払えず滞納しつづけていたものの料金がついに落ちただけです。
もともと、いつかは必ず払うべきお金です。
それでも当時のわが家にとっては、その支払いを後回しにする以外に食べていく術がなかった。
ちょうどお米も底を尽きてしまって、これから買いに走ろうと思っていたところだったので…… 路頭に迷ってしまいました。
結果的には、家に残っていた小麦粉でパンを作ったり、貯めていたポイントでウインナーを買ったり、見切り品の生クリームでケーキも作って、なんとかクリスマスっぽいクリスマスを過ごせたのですが。
(その後どうやって年を越したのかは記憶にない)
今でも、クリスマスが来るたびに「あんなこともあったなぁ」と思い出します。
生きていけるか不安になる度、きっとなんとかなるよ、なんとかしてみせるよ、今までだってなんとか生きてきたんだから…… と自分を励ます思い出のひとつです。
クリスマスイブの夜、私にもプレゼントが届きました。
ブログを通じてずっとずっと、私のことを見守ってくれている方から。
私が好きなものや、頑張りたいことなど、日頃の文章から感じとって選んでくださったであろう品々に、添えられたメッセージに、思わず泣きそうになってしまいました。
お礼のメッセージを書いていたら、また思いがこみ上げて泣きそうに……
いつも、いただいてばかりで。私は1/3も返せていません。
それでも、気にしないで!私がそうしたいからそうしてるんだよ!と言ってくれます。
でも、私もいつか返せるようになりたいし、その方だけでなくいろんな方々に「プレゼント」できるようになりたいなって思っています。
今日(12/29)もTwitterで、とてもあったかい言葉をいただいたところ。
「ひとさんが幸せそうなので、私も幸せ」って。うれしいな。
そういうふうに思ってくださる人がいるって、本当に幸せなことだな。
・冷蔵庫の奥で凍えていたレーズンとドライクランベリー(お湯で戻してふっくら)
・買ったものの、結局使わなかった100均のオレンジピール
・使いかけのアーモンドプードルとシナモンパウダー
・瓶の底にちょびっとだけ残っていたラム酒
などなど、2022年の冷蔵庫在庫整理もできて、こんなに美味しいなんて最高です。
最近、Twitterなどで年下のフォロワーさんが増えてきた気がします。10歳以上離れている方もけっこういらっしゃる。
それで、なんというか、もっとしっかりしなきゃというか。
弱音吐いたり、ネガティブツイートするのは控えなきゃ!……みたいな、そんな気持ちが今まで以上に芽生えている気がする今日この頃。
(私がネガティブに陥るときって、生活が切羽詰まってるときか、家族の怒りの感情を真に受けて・逆鱗に触れて自己嫌悪、自己否定に陥っているときがほとんどだけど)
個人的には、大人だって弱音を吐いていいと思っています。ネガティブな発言も。
でも、自分自身に限って言えば、そればかりではいたくないというか。
「悩みとかなさそうだね」って言われると、“僕の事なんか ひとつも知らないくせに〜” ってBUMPの『ベル』が脳内で流れたりするけれど。
でも、それって実はすごいことなんじゃないかって。
本当はいろいろ抱えているのにそれを滲ませず、悩みとかなさそうなやわらかい雰囲気でいられるのって、すごいことなんじゃないかって。
ある程度大人になった人が醸し出す明るさや優しさみたいなのって、その人の日頃の心がけや意識の積み重ねによるものなんじゃないかって。
これは常日頃思っていることなのだけど、つらいことが全くない(なかった)人なんていないと私は思っていて。
どんなに幸せそうに見える人にも、明るくて、悩みがなさそうに見える人でも。人に言えない悩みとか、心の傷とかあると思います。
人前で、SNSで、見えている姿、見せている姿、見せないように努力している部分……
その努力に気づかず、想像することもせず、表面だけ見てあの人は幸せそうだとか、逆に「かわいそう」だとか、自分だけが惨めだとか……
そうやって勝手に妬んだり哀れんだり、自己憐憫に浸ったり、ましてやそれを表出してしまったりするのは、できればしたくないなと思うのです。
それでも、「どうして自分だけが」という気持ちになってしまうことだってあるけどね……。
そういう絶望感も知っているし、一人で抱えきれなくなって弱音や愚痴をこぼしてしまうのも、責められるようなことじゃない。
私は、「しにたい」と思ったことがないけれど、それは死にたくなるほどつらいことが人生になかったというのと同義ではありません。
そして、私が「強いから」死にたくならないわけでもないと思っています。
逆に、「しにたい」人たちが弱いわけでもないと思っています。
単純に、思考回路の問題なんじゃないかって私は思っていて。
私の脳は「つらい」が「しにたい」に直結しにくい。ただそれだけ。
多分だけど、本当にしにたいときって「しにたい」とか思う前に、自覚する前に行動に移しちゃってるんじゃないかって。ある意味こわい。
ちなみに私の中で「消えたい」とか「楽になりたい」とか「終わらせたい」も、「しにたい」と同義ではないのです。この感覚、伝わりづらいのかもしれないけれど。
息苦しい日々の中でも腐らぬよう、健全な精神状態を保つというのは、なかなか大変なことです。
それでも自分を失わないように生きたい。
これは、「そういうふうに生きたい」という私の意志であり、意地でもあると思うのです。
「それ」を手離さないでいることが、私が私をあきらめていないということが、私にとって唯一で何よりの希望なのです。たぶん。
どんなに隠したって忘れたって、消えたりしないから大丈夫だよね。
なるべく弱音とかネガティブツイートしないように気をつけるぞ〜って今は思っていても、しばらくしたらまたポロッとこぼしてしまうかもしれません。
インターネットや文章や音楽を通してくらいしか、私はなかなか心を見せられないから。そういう場所が他にあまりないから。
急に180度は変われなくても、少しずつ少しずつ意識して……
もしまた弱音吐いちゃってたら、ひとさん今葛藤してるんだな、己とたたかってるんだな、と思っていただけたらありがたいです。
最後に、今年の一字。
夏の終わりくらいから、これだなって思っていました。
「祈」
自分へ、誰かへ、そして世界へ?
とにかく、何かと祈ってばかりの1年だったなぁと思います。
amazarashiの『祈り』という曲に今年出会えたのも、きっと必然です。
(amazarashi大好きだけど、まだ聴いたことのない曲もちらほらあります)
サビのメロディーは、降りそそぐ流星群のイメージ。
そのどれかひとつにどうかこの想いが届くようにと、願わずにはいられない。
みんなの願いも届きますように。
自分にとっての「1」を確信しながら、それでもなお苦しみに沈むこともあって。
そのくせ誰かを想って「あなたにとっての1が見つかりますように」と祈っていたりする。
やっぱり、私はまだまだそういう曖昧な立ち位置の人間です。
けど、そんな揺らぎも含めて自分なのだと愛していけたらいいな。
そんな自分にとって、おそらく今年いちばん大切でよく聴いた曲で2022年をお別れしたいと思います。
1.0/amazarashi
出会ってくださったみなさま、繋がってくださっている皆さま、読んでくださった皆さま、本当に本当にありがとうございました。
また来年も、文章や音楽で繋がれたら。どこかで交われたらうれしいです。
よいお年を。
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