【呪術廻戦】日車寛見の思想と葛藤

日車寛見は、呪術廻戦に登場する地味なキャラだが、彼の魅力に惹きつけられた読者も少なくない。
彼の詳細なプロフィールや能力等については、十分解説されていると思うので、それらについては論じない。
今回は、日車寛見のセリフを辿りながら、その思想と葛藤について私見を綴りたい。

思想の根底

セリフ①「弱者(かれら)は経済的にも精神的にも追いつめられています
私にあたるのも無理はない」

セリフ②「私は弱者救済など掲げてはいません 昔から自分がおかしいと感じたことを放っておけない性分でした それが治ってないだけです」

セリフ③「正義の女神は 法の下の平等のために目を塞ぎ 人々は保身のためならあらゆることに目を瞑る そんな中 縋りついてきた手を振り払わない様に 私だけは目を開けていたい」

呪術廻戦 日車寛見

日車の思想の根底は、セリフ①~③に表現されている。
彼は弱者救済を社会的承認を得るためではなく、「自分がおかしいと感じたことを放っておけない」からしているだけだと表現している。
元々、出世欲・名誉欲が希薄であり、裁判官への推薦を「出世に興味のない自分は向いていません」と断っている。
ただ純粋に弱者の縋りついてきた手を振り払わないように、日車だけは目を開けていようと努力していた。
「目を開ける」とは弱者に目を向けるだけでなく、真実を見ようとする比喩とも考えられる。
弱者に目を向け、真実を見ようとした結果、見えてきたものは皮肉にも弱者の醜さであり、その蓄積によって彼が道を踏み外す原因となってしまった。
そして、セリフ①の通り、日車自身は弱者による逆恨みに対して「私にあたるのも無理はない」としながらも、かつての上司である高木弁護士は「君の精神(こころ)はどうなるのさ」と懸念を表していた。
自分の精神の問題は後回しにして、他者の弱さに寄り添おうとする態度が表現されていたように感じる。

法的権力への諦めと「やり直し」

セリフ④「やり直しだ」

セリフ⑤「時に法は無力だ」

セリフ⑥「皆が真実を述べるなら裁判など必要ない」

呪術廻戦 日車寛見

セリフ④は、刑事弁護の第1審で日車は弁護士として無罪を勝ち取ったが、その後の第2審で検察からの新規の証拠提出なしに無茶な事実認定がなされて被告人が有罪判決となった際の言葉。
有罪ありきの裁判とそれによる弱者からの逆恨みの眼差しによって、日車の怒りは限界に達し、日車本位の「やり直し」の裁きを始めてしまう。
怒りに振り回されながらも、日車が矛先としたのは、弱者ではなく、権力者側の検察官と裁判官であった。
逆恨みした弱者を殺めることはなかった。
上記の成り行きから、法的権力や裁判の在り方に対して諦めの思想が根付いている(セリフ⑤、⑥)。
そのため、法的手続きを必要とせず、「総則を犯した者が物理法則のように罰される」死滅回游のシステムに日車は可能性を感じていた。

虎杖の敵(検察官)か味方(弁護士)か

セリフ⑦「人の心に寄り添う それは人の弱さを理解するということだ
被害者の弱さ 加害者の弱さ 毎日毎日毎日毎日 ずっと食傷だった
醜い。他人に歩み寄る度そう思うようになってしまった」

セリフ⑧「君もだ……虎杖!!人は皆!!弱く醜い!!オマエがどんなに高潔な魂を望もうとも!!
その先には何もない!!目の前の闇は ただの闇だ!!灯を灯した所で!!
また眩しい虚無が広がっている!!」

セリフ⑨「だが あの時は 少なくともあの時までは 他の生物にはない その穢(けがれ)れこそ
尊ぶべきだと思っていたんだ!!
何故だ 虎杖悠仁……何故罪を認めた……!!」

セリフ⑩「無罪だ 君に罪はない」

セリフ⑪「オマエのような弱さをもつ人間はまだまだいるのかもしれん」

呪術廻戦 日車寛見

日車は、虎杖との戦闘を通じて自分の中に眠る良心と対峙することになる。
彼は刑事裁判を模した術式で、相手から有罪判決を勝ち取り、相手にペナルティを与えることで勝負を有利に進めてきた。
術式の運用における日車の役割は、奇しくも殺めるほど憎んだ検察官であり、相手は弁護士のいない被告人となる。
日車のタイミングで仕掛けた1回目の領域では、虎杖の罪状は「未成年でパチンコ店に客として入店した疑い」であった。
日車の手元には、「虎杖が換金所にいる写真」が証拠としてあり、それは虎杖から有罪を勝ち取ろうとする検察官側の証拠であった。
そして、「やり直し、もう1回だ!」という虎杖の宣告により仕掛けられた2回目の領域では、虎杖の罪状は「渋谷での大量殺人を犯した疑い」であった。
2回目の領域において、日車の手元にあったのは、虎杖の中に巣食う悪魔宿儺に関する情報であり、心神喪失により虎杖の無罪を勝ち取ろうとする弁護士としての証拠であった。
しかし、「あぁ 俺が殺した これは嘘でも否定でもない」という虎杖の自白によって、ジャッジマンから虎杖に対して没収と死刑のペナルティが与えられる。
この虎杖の自白によって、日車の中の弁護士としての良心が呼び戻されることとなる。
「昔から自分がおかしいと感じたことを放っておけない性分でした」という思想の根底に立ち返ることになる。
日車の手元には虎杖の無罪を証明する証拠があるのにもかかわらず、冤罪で虎杖が死刑判決になったことで、日車自身がかつて憎んでいた検察官や裁判官と同じことをしていると気づきはじめる。
セリフ⑦⑧において、本来救うべき弱さを目の当たりにし、そのコントラストとして弱者を冤罪で裁く自分の醜さを直視せざるを得なくなり、感情をあらわにしているように感じる。
セリフ⑨には、弱者の敵(検察官)としての日車と弱者の味方(弁護士)としての日車の葛藤が見られる。
そして、日車の良心としては「おかしい」と考える判決だと思いながら葛藤した末、セリフ⑩「無罪だ 君に罪はない」と虎杖の味方(弁護士)としての言葉を吐露する。
それに対して、虎杖が「でも やっぱり俺のせいだ 俺が弱いせいだ」と答える。
セリフ⑪は刑事弁護に明け暮れた日の日車の価値観に戻っているように思える。
「救うべき弱者がまだまだ世の中にいるのかもしれない」と、原点に立ち返り、自分の能力で「気に入らない奴」を裁くのではなく、弱者に手を差し伸べようとする思想への変化が垣間見られる。

自責の念

セリフ⑫「俺は法を見限り また見限られた人間だ 最期に自分を罰するのは自分でありたい」

セリフ⑬「俺はここで役割を全うして死ぬべきだと思っている」

セリフ⑭「それでいい……」

呪術廻戦 日車寛見

セリフ⑫⑬は、対宿儺の作戦会議の回想で述べられた日車の言葉。
セリフ⑫は、虎杖に「日車は死にたいの?日車は反転使えないじゃん なのに当たり前に宿儺と戦うことになっているから」と言われた際に応えた言葉。
弱者救済に伴う憤りの蓄積によって「気に入らない人間」を殺めてしまったことに対する自責の念が見られる。
そして、セリフ⑬にある通り、日車としては自分のやった過去の行為が死刑に相当するという考えが読み取れる。
そして、迎えた宿儺戦で宿儺から死刑判決をとったが、宿儺への攻撃は当たらず、瀕死の日車が虎杖に処刑人の剣を投げ渡したときの言葉がセリフ⑭。
虎杖に「処刑人の剣」というバトンを渡したことで、自分の役割は終えたので、自分の命が潰える運命に対して「それでいい」と肯定しているように思える。
日車としては虎杖との出会いで良心を回復したからこそ、自責の念に堪えられず、宿儺との戦いで死に急ぐような思考になっていたように感じる。
また、処刑人の剣を得る直前の出来事として、日車の「やり直しだ」というコールにより仕掛けられた、受肉した宿儺を巻き込んでの三審では、中立な第三者ジャッジマンから宿儺の死刑判決を勝ち取ることができた。
これにより、間接的に虎杖の無罪を証明することができ、日車の弁護士としての役割を果たすことができた。
「おかしいと思ったこと(虎杖への死刑判決)」を「やり直し(宿儺への死刑判決)」て裁くことができたため、自分の生き方に対して「それでいい」と多少の肯定ができたのかもしれない。

日車の罪に対する判決

宿儺戦が終わり、平穏が戻りつつある中、日車は生き長らえたため、冒頭の検察官と裁判官を殺めた罪に関して裁判にかけられることとなる。
しかし、今回は法的権力以上の呪術会の権力によって、日車は無罪となる。
ただこの判決は、自分は死ぬべきだと思っている日車にとっては肯定できない判決であった。
その意図を汲み取り、日車の助手が日車に対して「やり直しですね!」と告げ、「遺族の代理人として 日車さんをぶちこんでみせます!!」と続けた。
この最後の描写は、かつて日車の案件をめんどくさがっていた日車の助手が無意味に見えても積極的にやり抜こうとする日車の意思を継いでいるように見えた。

まとめ

日車が望む世界は、権力の介入なしに弱者が公平に裁かれる社会であった。
彼の行動原理は終始、弱い立場にある他者のためであった。
彼が罪を犯してしまったのも、自分のためというより、他者が公平に裁かれる世界を願ってのことだった。
日々を弱者救済のために生きて、その果てに弱者が公平に裁かれない現実を見たから、法的権力に対して牙を剥いてしまった。
創作の中だけでなく、現実にも言えることではあるが、弱者救済とは弱者に向き合うなかでその醜さと対峙することになる。
弱者だけが醜いのではなく、日車の言葉を借りれば「人は皆弱く醜い」。
親密度が深まり、人の心に寄り添うほど、その人の醜さに触れることになる。
その醜さを理由に突き放すことは簡単である。
ただその穢れこそ、尊ぶべきなのかもしれない。
他者の醜さに対して嫌悪して突き放すのではなく、寛容になり手を差し伸べるべきなのかもしれない。
たとえその先に「眩しい虚無」が待っていようとも、それは他者に寄り添わない理由にはならない。
日車寛見は、そういう思いを想起させてくれる素敵なキャラクターだった。

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