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読書「アヒルと鴨のコインロッカー」を読みました

伊坂幸太郎著 創元推理文庫

昨年から読み始めていたのに、個人的な事情で二度も中断してしまった。読み始めて暫くして「三体」のⅠを読み、それからまた読み始め、今度は「火花」を読んでしまった。(そうなった詳細はこちらをどうぞ。)

いくら事情があったにせよ、こんな風に切れ切れで拝読して、本当に作家さんと作品に申し訳ないと思い、さすがに今回は、立春前に読むと決意した。残りあと1/3くらいだったのだが、読み始めたら、「うぇ!!!」みたいな変な声で脳内がいっぱいになるくらい驚く展開が隠されていて、心底、読みかけのままにならなくてよかったと思った。

そこに至るまで、読んでいる間、ずっと、ぶにぶにとした形がよく分からない物を掴まされているような妙な感触があった。中断していても、読み始めるとすぐに物語の中に入り込めるくらい世界観がはっきりしているのに、一方でどこか掴みどころがないような雰囲気が、とても不思議だった。お名前はよく存じ上げているが、実際に読んだことはなかったので、何が原因かわからなかった。単なる自分の読解力のなさかもしれないが、初めて読むなら他の作品がよかったのかもしれないと勝手なことも考えた。

ただ、変な声で脳内が一杯になるくらい驚いて以降、今度はするするとそれら全てがほどけていき、なるほどと合点がいった。登場人物の一人が、物語の中で起きた出来事について、その核心がわからなかったのは、自分が軸で話が回っているのでなく、他人が主人公だからだと気がつく場面があるが、正しくそれだった。行動や会話の中に隠されている真実に気がつかず、ただ目に見える事だけを追っていたから、なんとなく妙に感じていたのだ。作家さんはその効果をどのくらい計算しお書きになったのか、また鋭い読み手の方々は、どこまでそれを見抜いて楽しんでおられたのだろうか。

だいたい、最初から自分はうっかりしていた。作家さんのお名前もタイトルもなんとなく存知上げていたので、何気なく手に取って作品のジャンルについても深く考えていなかった。創元社さんの推理小説なのだから、この作品がミステリなのは気がつくべきだ。それなのに、ディランをよく知らない自分でもとりあえずメロディーが浮かんでくる「風に吹かれて」やブータンという空想を広げさせる固有名詞や動物殺しという凶悪な出来事や個性豊かな登場人物たちの行動に目を奪われて、物語の本質が全然見えていなかった。タイトルにある鴨とアヒルのことも、さらっと流してしまった。残りのコインロッカーはいつ出てくるのだろうと読んでいたけれど、まさかそんな使い方をするとは思いもよらなかった。コインロッカーは預けるとか開けるくらいのイメージしかなかったからだ。

そう、最初からずっと騙され続けていたのだ。そもそも、謎が隠されていることすら考えてなかった。なんという読者だろう。それでは、なんのジャンルだと思って読んでいたのかと言われると、それもまたわからない。そのくらいごく自然に物語は始まり、ディランの歌が流れる中、バッティングセンターや動物園での日常の風景やブータンでの輪廻転生の思想を混ぜながら、今と二年前の出来事が巧みに交差していく。滑稽さや危険と共に、どこか大らかでのどかな世界が展開していくうちに、終盤、それらの日常の向こうに隠れていたものが突然浮かび上がるように姿を現わし、途端に息苦しいくらいの切なさに襲われる。けれども、それもまたディランの歌にのせて、途切れることのない繋がりの中に混ざって溶けて流れていく。それを可能にしたのが、ブータンという要素だろう。なぜブータン?と途中何度も訝しく思ったが、それはこの物語になくてはならない要素であり、救いでもあった。もし、ブータンという要素がなかったら、この物語は絶望で終わったかも知れない。物語のラストの方が、季節は進んでいるが、そこに描かれている春の訪れは、目の前の立春とどこか重なって見えた。寒いと言っても、もう暦の上では春を迎えるのだ。春は希望と哀しさを併せ持って訪れる。

風が吹いていく。時には冷たく、時には温かく。まるで神の声を伝えるように。まだ、今すら見えない中、ディランの歌に乗せて、日々は続いていく。表向きそれは以前と同じ緩慢とした日常であるように見えるが、全てを知ってしまった今となっては、全く違ったように見える。表面上は同じようでも、もう以前の何も知らなかったときに戻ることは出来ない。物語の登場人物も、そしてこの作品を読んだ私達も。そんな衝撃を受けた作品だった。


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