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【小説】早朝の街中で

 7月が訪れてから2回目の木曜日。窓の向こうから聞こえるのはセミの声。夏用の薄い掛け布団に身をくるませながらスマートフォンを見ると、ホーム画面の時計は午前4時半を示していた。
 どうやら目覚ましが鳴る前に起きてしまったらしい。起きなければいけない時間まで、あと1時間ほどある。もう一度眠りにつこうかと思ったが、すっかり目が覚めてしまっていた。
 起きたばかりのぼんやりとした頭でこれから何をしようかと考える。スマートフォンで動画を見るのもいいし、本を読むのもいいかもしれない。だが、今はそのような気分ではない。


 いつもは寝ているはずこの時間帯は、自分にとって未知の世界そのもの。どうせなら、普段は出来ないようなことがしたかった。非日常感を味わいたい。どこかわくわくとした気持ちで何をしようかと考えを巡らせていると、一つの答えにたどり着いた。 
 そうだ、散歩に出かけよう。この時間帯の散歩は私にとってぴったりだ。


 そうと決まれば話は早い。早速ベッドから抜け出し、部屋着を脱ぎ捨て、パーカーとジーンズを洋服ダンスから取り出す。その時、中学校の制服が目に映った。ハンガーにきっちりとかけられた制服。でも、今はあまり見たくない。それらに対し見て見ぬふりを決め込み、私はなるべく早く準備を進めた。
 もたもたしていると、散歩に行く時間が無くなってしまうかもしれない。このような特別な時間は過ぎるのが速いのだ。そんなことを考えながら、急いでスマートフォンと家の鍵をショルダーバッグに詰め込んだ。

 まだ寝ている家族を起こさないよう、静かに部屋を後にし、階段を下りる。最後に玄関にあるキャップをかぶり、履きなれたスニーカーを身につければ、散歩の準備は完璧だ。玄関の扉を開け一歩外に出ると、初夏の朝の空気が優しく全身を包み込んだ。


 家の周りにはいくつか水たまりが出来ている。どうやら自分の寝ている間に雨が降っていたらしい。そのせいか少し空気もひんやりとしており、空も雲に覆われて薄暗い。
 雨は少し苦手だ。頭は痛くなるし、気分も暗くなる。だから、起きるまでにやんでくれてよかった。朝まで降っていたら、散歩も億劫になってしまい、行かなかったかもしれない。

 久しぶりの外の世界。清々しい快晴とはいかなかったが、今の自分にとってはこれくらいがちょうどよい。外の空気を大きく吸い込み、雨に濡れた道を歩き始める。

 さわやかな空気に包まれた早朝の散歩は、思っていたよりも気持ちがよい。雨に濡れてしずくを落とす植物、少し冷たい空気、あまり車の走っていない道路。街中が静まり返っており、聞こえるのはセミの声と自分の足音くらい。何もかもが新鮮で心地よかった。

 そして何より人の少ないことがうれしい。家から出て10分くらい経ったのだが、すれ違ったのはランニングをしている男性と犬の散歩をしているお爺さんくらい。もし、これが昼間だったらそうはいかないだろう。それならば夜に行けばよいのだろうが、いくつか街頭はあるとはいえ、夜の散歩は暗くて怖いし、危険もある。それに、未成年の自分は補導されてしまうかもしれない。
 昼間の散歩は夜とは別の意味で怖い。平日に近所を散歩すれば、「あの子は学校も行かずになにをやっているのかしら」と白い目で見られてしまうだろう。昼間であっても補導されてしまう可能性はある。


 でも、違う。自分が一番恐れていることは近所の人に白い目で見られることも、警察に補導をされてしまうことではない。私が一番恐れていること、それは自分のクラスメートに出会ってしまうこと。


 今日で学校に行けなくなってから一週間くらいが過ぎた。事の発端は、6月半ばのこと。急にクラス中の女の子から無視をされるようになってしまった。多分、彼女が何か言ったのだろう。

 クラスの中心人物で、よく目立つ存在であり、気が強い。彼女はそんなイメージだった。その彼女と同じクラスになったのは今年が初めて。今までほとんど話した記憶などなかった。
 4月までは彼女との関係は普通だった気がする。仲が良いというわけではなかったが、何か用事があって話しかけるときは普通に応じてくれていた。でも、5月の連休明けくらいからだっただろうか。私への態度はあからさまに以前とは違うものになっていた。配られたプリントを回すとき、授業中グループで話し合いを行うとき、彼女の目と声色は常に冷たさと嫌悪感に満ち溢れていた。それは、彼女の周りにいる友達も一緒だった。みんなこぞって、私に冷たい態度をとる。

 どうしてこんな風になってしまったのだろう。最初は私に何か原因があると思っていた。だけど、クラスメートの話を聞く限り違うようだ。
 今年から担任になった先生は、若くて明るい感じの男の人だった。生徒に対してもフレンドリーで、皆に人気がある先生だ。彼女も先生のことが好きだったらしい。
 そんな先生に、私は特別好かれていたらしい。別に他の先生とは違う態度をとっていたわけでも、いい子ぶっていたわけでもないのに。
 そのことに関して自覚がないわけではなかった。なんとなく気づいていたけれど、考えないようにしていた。考えたところで、どうすればいいのかもわからない。先生に直接相談するわけにもいかないし、わざと成績を落とすわけにもいかない。どうしようもなかった。だから見ないふりをした。それが最善の方法だったかは、今の状況を見ればわかる。

 次第に彼女たちの行動はエスカレートしていった。私に聞こえるように悪口を言ったり、こちらを見てクスクスと笑ったりすることはしょっちゅうで、周りの友達は段々と私を避けるようになった。 
 同じグループの子達がそのような態度をとるのも無理はない。彼女や、その周りにいる彼女の友達の存在は誰よりも恐ろしい。あの狭い教室の中で、もし自分も彼女たちに目をつけられてしまったら。私のようになってしまったら。その気持ちは十分にわかる。私も、私以外の誰かが同じ状況に陥っていたらどうするかは分からない。そんなことは分かり切っている。でも、でも、本当は誰かに助けてほしい。なんて自分は都合の良い人間なのだろう。

 そんな状況にも、最初の内は耐えることができていた。嫌な態度をとられても、聞こえるように悪口を言われても、何でもないようにふるまっていた。でも、我慢の限界は時間の問題だった。一人で向かう移動教室も、一人で過ごす休み時間も、全部がむなしい。人から向けられる悪意は苦しくてつらい。
 そして、一週間前。いつものように見送ろうとする母を背にしながら、学校へ向かおうと靴を履いていた。でも、立ち上がろうとした瞬間、そこから体が動かなくなってしまった。まるで何かに押さえつけられているかのように、腰を浮かせることができない。その場から動くことができなかった。

 なかなか立ち上がらない私を、お母さんはなにごとかと心配したのだろう。お母さんは靴を履き、私の正面に座ると驚いたような顔をした。そこで、私はいつの間にか自分が泣いていることに気が付いた。いつもなら「行ってきます」という言葉が出るのだが、その日は違った。

 「学校に行きたくない」
 この日から私は学校に行けなくなってしまった。そして、ずっと家にこもり続ける日々が始まった。学校に行けなくなった理由は、まだ家族に話せていない。


 家から30分ほど歩くと、小さな公園が見えてきた。小学生の頃によく遊んだこの公園は、当時とは何も変わっておらず、懐かしい感じがする。ちょうど休憩がしたかったところだ。この公園には、ベンチの隣に自動販売機もあるはず。少し休んでいこうと思い、公園の中へと向かった。

 何か飲み物を買おうと自動販売機の前に立ったのはいいが、よく考えれば財布を持ってきていない。パーカーのポケットをあさると、小銭が二枚出てきた。100円玉と50円玉だ。これならギリギリ飲み物が買える。やるじゃん、昔の私。いつも飲んでいる小さめの紅茶を購入し、少し古びたベンチへと腰を下ろした。

 紅茶を飲みながらスマートフォンを見ると、時刻は5時20分になっている。いつの間にこんな時間になっていたのだろう。空も家から出てきた時と比べて、ずいぶんと明るくなっている。こんな風に、楽しい時間はすぐに終わってしまうのだ。だから、楽しい時間は好きだけど嫌い。終わってしまった後に悲しくなってしまうから。



 少しずつ空が明るくなってきた。ああ、楽しい時間が終わってしまう。そろそろ帰らなければ。少し残念な気持ちになりながら周りを見渡すと、そこには美しい景色が広がっていた。


 太陽の光がベンチの周りの水たまりを照らし、水面がキラキラと輝いている。ジャングルジムも、ブランコも、花壇の花も。みんな朝日に包まれて、キラキラと光っている。この公園全体がまぶしいほど、輝きに包まれている。
 なんて綺麗なんだろう。雨上がりの外がこんなにきれいだなんて、初めて知った。そう考えると、雨はそこまで嫌いじゃないかもしれない。雨はこんなにも美しい景色を作り出してくれる。今日散歩に来れてよかった。そして、昨日の夜に雨が降ってくれていてよかった。

 そして、私も。今の自分の状態が、重い雲に覆われて降り続けている雨だとしたら、その先にあるのは、きっと。それがいつになるのかは分からない。でも、少しづつでもいいから。

 こんなきれいな景色を見ていると、学校のことなどほんのちっぽけなことだと思えてきた。外には色々な綺麗なものがある。自分のまだ知らないことが、まだたくさん。あの狭い教室に、自分はとらわれすぎていたのかもしれない。


 家に帰ろう。お母さんとお父さんときちんと話そう。まずはそこからだ。
 涙をぬぐいながら、家まで急ぐ。帰り道も朝日に照らされ、キラキラと輝いている。その輝きは公園で見たものよりももっと綺麗だった。

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