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「マリーについて」第1話


わがまま猫のマリー

 桜が咲いていたから、たぶん四月の初め頃だったと思う。

 大学のキャンパスには初々しい新入生が大勢いてさ、そいつらを勧誘しようとサークルのビラ配りをするやつらもうじゃうじゃいた。そんな中俺は、キャンパスの片隅でひっそりと、ギターを片手に歌ってたんだ。

 まぁ、春の風物詩、みたいな感じかな。ほら、大学ってそんなもんでしょ。ダンスしてるやつらがいたり、こたつで鍋してるやつらがいたり、縄跳びしてるやつとか、絵を描いて売りさばいてるやつとかがあちこちにいるの。だから、ギターを弾いて歌っていても、全然浮いてない。むしろ、雑然とした風景に見事に同化してるっていうか。あまりにもそこになじんでいるから、わざわざ足をとめて聞き入ってくれる人なんていないわけよ。ざわざわ、きゃあきゃあうるさい人混みの中の、BGMみたいな役割だね。別に俺は、誰かに聞いてほしいわけじゃないんだ。ただ、広い空間で騒音も気にせず、ギターをかき鳴らすのが気持ちいいってだけ。

 その日も俺は、騒がしいキャンパスの片隅で、下手くそなギターをかき鳴らしていた。足をとめてくれるやつなんてひとりもいない。みんな、ひとりでも多く新入生をサークルに入れようと全力で勧誘したり、そんな在校生の誘いから逃げることに必死で、それどころじゃないから。

 そんな中でね、ひとりの女の子が、少し離れたところでじっと俺の歌を聞いていることに気づいたんだ。そうそう、確かスピッツの「ロビンソン」を歌ってた時かな。俺、スピッツすきだからさ、よく歌うんだよね。オリジナルも歌うんだけど。別に聞かせたいわけじゃないけど、春だし、新入生も大勢いるし、BGMとしては知ってる曲の方がいいかなっていう、ちょっとした自己満足の気遣い。

 そう、それで、その女の子がね、そりゃもうえらくかわいいわけよ。ふわふわにウェーブした、腰くらいまで伸びた長い髪。春っぽい花柄のワンピースが、白い肌にものすごく映えてる。瞳だって遠くから見て分かるくらい大きいの。もう、そこら辺にいる女の子とは明らかに違ってたね。クラスにひとりいるかわいい子、ってレベルじゃない。アイドルっていうより女優みたいな、ちょっと近づきがたいくらいの、神々しささえ放ってる感じ。新入生かな、とも思ったけど、なんだか妙に幼いんだ。中学生くらいかな? って、その時は思った。

 とりあえず俺は、その美しさに歌詞を奪われないように必死で歌った。本当は今すぐギターを放り出して彼女に駆け寄りたかったけどね、そこはぐっと我慢したよ。

 それで、ちらちら女の子を見ているうちにさ、その子の頬にすぅーって涙が流れていることに気がついたんだ。もう、本当に、空から垂れた雨糸みたいに。遠目からだけどはっきり分かった。だって、大きな目が水たまりみたいに潤んでたから。正直びっくりしたよ。あれ、何で泣いてるんだよ。もしかして、俺の歌に感動して泣いてる? 別にバラードなんて歌ってないけど。空は雲一つない快晴だし、桜も満開で、周りは新生活に期待してる新入生で溢れ返ってるっていうのにさ。その女の子はたったひとりで、じぃっと俺を見つめながら泣いていたんだ。春の雨みたいに、ひっそりと。

 歌い終わる頃には、彼女の姿は消えていた。しまったなぁ、声かければよかったな。そんなことを思って、その日は家に帰った。

 だけど、次の日も、そのまた次の日も、彼女は俺の歌を聞きにきたんだ。いや、たまたまそこに居合わせただけかもしれない。ギターを弾いて歌っていると、いつの間にか彼女はやってくる。何も言わない。拍手もしない。ただ遠くからじっと俺を見つめて、はらはらと涙を流す。歌い終わると、逃げるようにすぅーっと人混みの中に消えていく。そんなことが何日も続いた。

 新入生歓迎ムードがピークを過ぎて、キャンパスが少しだけ落ち着きを取り戻し始めた頃。もう俺は、その時にはただの自己満足じゃなくて、彼女のために歌っていたのかもしれない。彼女に会いたくて、涙の理由が知りたくて、俺はその日も、おなじみの場所で歌ってたんだ。

 歌い始めて一時間くらい経った頃、彼女はやっぱりやってきた。初めて見かけた日は認識するのがやっとなくらい離れていたのに、日を追うごとにどんどん距離が近くなって、今ではもう、彼女の長いまつげすらはっきり見える。間近で見ると、思っていたよりずっと小柄で、同じ人間とは思えないくらいきれいだ。道行く人たちはみんな彼女を見ているけれど、声をかけるやつは誰もいない。気軽に話しかけちゃいけない、どこかの国のプリンセスみたいな雰囲気をまとっているから。それは俺も例外じゃない。声をかけることなんていつでもできた。「歌を聞いてくれてありがとう」なんていつでも言えた。だけどまっすぐに見つめてしまったら、迂闊に声をかけてしまったら、せっかく縮めたこの距離が、台無しになってしまいそうでこわかった。もう二度と、歌を聞きにきてくれなくなるような、そんな気がしておそろしかった。

 だけどね、その日はもう、彼女に対する純粋な興味と好奇心が限界まで膨らんで、空気がパンパンに入った風船みたいになっていた。もうこれ以上我慢したら、弾けてしまうんじゃないかってくらい。

 彼女は静かに今日も泣く。声を上げることはしない。涙を拭うこともしない。溢れた感情に抵抗することはない。表情のないその顔に、涙だけが流れている。そのアンバランスさがとても危うくて、美しかった。

 俺の歌に満足したのか、それとも飽きたのか。彼女は歌の途中で腰を上げ、その場から離れようとした。ああ、もう行ってしまった、と、普段なら諦めるところだけど、その日は違った。

「待って!」

 咄嗟に呼びとめると、彼女はびっくりしたように振り向いた。俺の歌声とギターの音が、行き場を失くしたようにぷつんと途切れた。周囲の人たちの視線がちくちく突き刺さる。まずい。はたから見たら、完全にプリンセスに声をかけてしまった庶民の図だ、これ。どうしよう。彼女のビー玉みたいにきれいな瞳は完全に怯えきっていて、これ以上近づいたらぴゅーっと猫のように逃げてしまいそう。早く何か言わなければ。ぐるぐる思考を巡らせたあと、ようやく口から出てきたのは、

「えっと……よかったら、パフェでも食べませんか」

 ――まさか、本当についてくるとは思わなかった。  

 考えた末、彼女と一緒にやってきたのは、キャンパス内にあるカフェだった。午後三時。暇をもてあました学生たちで溢れ返るこの場所で、目の前の女の子は黙々とパフェを食べている。

「お、おいしいよね、ここのパフェ。俺もたまに食うんだ」

 ぎこちなく笑いかけてみたけれど、返事はない。賑やかなこの空間では、沈黙が逆に目立ってしかたない。

 俺は若干、無計画な自分を後悔していた。勢いあまって声をかけてしまったけど、こんなところでよかったのかな。ずっと話したいと思っていた。たった一言でも、言葉を交わせる日を待ち望んでいた。それなのにいざその日が来ると、何を話したらいいのか分からない。しかも、パフェって何だよ。他にもうちょっとかっこいい誘い方あっただろ。

 どうしよう。何を話そう。残念ながら、目の前の女の子は沈黙を埋めようとはしてくれない。その小さな口はいちごを食べるためだけに動いている。くりっとした大きな瞳はパフェしか映していない。いや、かわいいよ、そんなところも十分かわいいんだけどね!

「いきなりごめんね、話しかけて。あ、俺は登坂健人。文学部三年。君、いつも俺の歌を聞いてくれてたよね。新入生? 学部どこ?」

 緊張を紛らわせようと早口で捲し立てたら、ナンパみたいになってしまった。しまった、これじゃあ距離を縮めるどころじゃない。ほら、今だって完全に俺のこと警戒してる。だって睨んでるもん。怪しいやつだと思われてる。彼女はスプーンを動かす手をとめて、ぶっきらぼうに首を振った。

「……もしかして、うちの学生じゃないの?」

 何も答えない。けどたぶん、それは肯定の証。

「そう、なんだ。まあ、学生じゃなくてもキャンパスには入れるしね。あ、もしかして、家が近いとか?」

 俺から目を逸らして、小さくうなずく。

 中学生……いや、高校生かな。顔立ちもあどけないし、なんかこう、全体的に小さいけど、瞳だけは妙に冷めてるというか、人生を諦めた老婆みたいで……って、これは失礼か。

 でも、そうだとしたら、学校は? 今日、平日だよな。どうしていつも俺の歌を聞いてくれていたんだろう。疑問は泉のように湧き出て尽きることがない。全部聞いてみたい。もっと知りたい。けれど、その衝動はぐっと堪えて、まずは自分の話をしようと思った。

「……俺さ、去年もあそこで歌ってたんだけど、聞いてくれる人なんてひとりもいなかったんだよね。まあ、歌いたいから歌ってるだけだからさ、別に観客なんていなくてもいいって思ってたんだけど。でも今年は、君が聞いてくれたからすっごく嬉しかったんだ。やっぱり聞いてくれる人がいると、頑張れるっていうか、最近は歌うのがもっと楽しくなって。だから、その、何が言いたいかというと……俺の歌を聞いてくれて、ありがとう。……って、いきなり、ごめん……!」

 俺は途端に恥ずかしくなって、羞恥心を紛らわせるように、アイスコーヒーを喉に流し込んだ。何言ってんだよ、俺。いきなりこんな話をしても困らせるだけだろ。その証拠にほら、彼女は目をぱちくりさせてるし。絶対引かれた。変なやつって思われた。ああ、こんなことなら話しかけるんじゃなかった……。

「……似てたから」

 げんなりと肩を落としていたら、ぽつりと彼女がつぶやいた。

「わたしの知ってる人に、似てたから。……だから、歌を聞いてたの」
「似てるって……俺が?」

 答える代わりにうなずいて、残りのパフェをスプーンですくい上げる。初めて聞いた彼女の声は、絹糸のようにか細くて――そして、鈴の音のように澄んでいた。

 青い水晶玉みたいにきれいな瞳で、まっすぐに俺を見る。顔には確かに不安の色が浮かんでいるのに、その瞳には強い意志が宿っているようだった。

「また、聞きにきてもいい?」
「……もちろん!」

 俺は嬉しくなって、全力で首を縦に振った。彼女はちょっと安心したように口元をゆるめて、「……ごちそうさま」と席を立った。

「あ、あの!」

 そのままどこかに行こうとするので、俺は慌てて彼女を引きとめた。足をとめて、なぁに、と彼女が振り返る。さっきの、警戒するような目じゃない。もう怯えてなんかいない。

「よかったらまた、パフェおごるよ! いや、パフェじゃなくても、何でも君のすきなもの……」
「……マリー」
「え?」

 聞き返すと、彼女は訴えかけるように俺の目をじぃっと見つめた。それが彼女の名前だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。

「……マリー」

 名前を呼ぶと、マリーは満足そうに微笑んで、いつものようにすぅーっとどこかに去っていった。

 この日を境に、俺とマリーの関係は少しだけ変わった。いつものように俺が歌っていると、ふらりとマリーがやってくる。そこまでは同じなんだけど、最後まで近くで歌を聞いてくれるようになったんだ。しゃがみ込んで膝を抱え、大きな瞳でじぃっと俺を見つめながら、下手くそな歌に耳を澄ませる。そして小雨が降るようにしとしと泣くのだ。

 思い上がりも甚だしいんだけどさ、最初はただ、俺の歌に感動して泣いているのかと思ってた。だけどしばらくして、そうじゃないってことに気づいたんだ。マリーはただ単純に、感動して泣いているわけじゃない。きっと、辛い記憶を思い出して泣いている。確証はまったくないけれど、そう確信した。

「ここのパンケーキ、おいしいんだよね」

 それは、マリーと出会って何度目かのティータイム。その日はキャンパスから飛び出して、大学近くのカフェにマリーを連れていった。普段は絶対にカフェなんか行かないんだけど、彼女の喜ぶ顔が見たくて、本来絶対に必要ない女子力が格段に上がってしまったのである。

 期待どおり、マリーは大きなパンケーキを見てとんでもなく無邪気な笑みを浮かべた。上品な見た目からは想像できないくらい大きく口を開けて、パンケーキを放り込む。さっきまで泣いていたとは思えないくらい幸せそうだ。なんだか俺まで嬉しくなって、思わず顔がほころんだ。

 人気店とはいえ平日なので、店内は人もまばらだ。聞き覚えのあるクラッシックが優雅に流れて、スローモーションのように時が流れる。おしゃれなカフェ、おいしいスイーツ、かわいい女の子。俺にはもったいないくらいのこの空間。あと一歩距離が縮まれば、もう完璧。

 いつの間にか、歌を歌ったあとはこうしてマリーにスイーツをごちそうするのが習慣になっていた。マリーは甘いものに目がないようで、カフェに誘えば絶対についてきてくれたし、また、それ以外に確実に誘える手段を、俺は持っていなかったんだ。今思うと、かっこ悪いよなぁ、俺。だってさ、いわば、「守り」に入ってたってことじゃん。

「一口、いる?」
 マリーの視線に気づいて提案すると、彼女は小さくうなずいた。俺のパンケーキにぶすりとフォークを突き立て、遠慮なく口の中に放り込む。そう、そうなんだよ。マリーって意外と豪快なんだよな。見た目はすんごいきれいでお人形さんみたいなんだけど、結構不愛想だし、全然心を開いてくれないし。だから、なかなか距離は縮まらない。

「あのさ、マリー」

 だけど、せっかく知り合いになったんだ。絵画のようにいつまでも眺めているわけにはいかない。だから俺はこの日、片手につかめるくらいの勇気を出してみることにした。

「マリーって、何歳? どこに住んでるの?」
「……教えない」

 案の定、ピシャリとシャッターを閉められた。途端に、マリーの眼光が鋭くなる。さっきまであんなに幸せそうな顔をしていたのに。全身の毛を逆立てた猫みたいだ。

「またそれ? これだけすきなものごちそうしてあげてるのに」
「別に、頼んでない」
「じゃあ、次からおごらない」

 わざと意地悪を言ってみると、マリーは悔しそうにむぅ、と頬を膨らませた。

 マリーと関わって、分かったことが二つある。完璧な美しさからは想像がつかないけれど、彼女は結構ツンケンしている。きれいなバラには棘があるって言うけれど、マリーはまさにそれだ。正直、性格は全然かわいくない。けれど、それを補えるくらいの大きなプラスが彼女にはあるのだ。

 そして、もう一つ。

 マリーはフォークを口にくわえたまま、窓の外をぼんやりと眺めた。楽しそうにしていると思ったら、こうやって、悲しそうにどこかを見つめる。それは、俺の歌を聞いている時と同じだ。彼女には、何か辛い過去があったのだろうか。一体何を見つめているのだろう。俺の歌を聞いて、誰を思い出しているのだろう。

「マリー」

 名前を呼ぶ。

 彼女は振り返らない。大きな瞳が俺を映すことはない。マリーのことを知らなくても、どうしたって分かってしまう。俺の歌を聞いて、俺ではない誰かを想っていることも。例えて言うなら、俺はきっと投影板みたいなもので、誰かの声とか、仕草とか、表情とか、そういうものを映し出す道具でしかないんだ。

 マリーについて、知らないことがたくさんあるよ。どこから来たの。年はいくつなの。どうしてそんなにさみしそうなの。わがまま猫のマリーは、今日も俺の問いかけに答えない。ほら、こうやっていつまでも、どこか遠くを眺めるだけ。

「……桜って、いつまで咲いてるの?」

 彼女の視線を追ってみると、そこには一本の桜が咲いていた。無情な春風が、ピンクの花びらをはらはらと散らせ、その美しさを奪おうとしているみたいだ。つい二、三日前までは枝の先まできれいに咲いていたのに、今は少し、みすぼらしい。

「今年は結構長いよね。でも、もうピークは過ぎてるし、今夜から天気が崩れるらしいから、あと一週間くらいかなぁ」

「……そう」

「もしかして、桜がすきなの?」

 試すように聞いてみると、ようやくマリーはこちらを向いた。何かを思い出すようにうつむいて、小さく首を振る。

「すき、とかじゃない。……約束してたの」

「約束? どんな?」

「……桜を、見にいこうって」

 その声はかすかに震えていた。涙を堪えるように、ぐっと唇を噛む。

 踏み込むべきか、少し迷った。まだ出会って間もない俺が、そこに触れていいものか。もしかしたら、彼女をひどく傷つけてしまうかもしれない。だけどきっと、ここで怯んでしまったら、彼女の流す涙の意味は、永遠に知ることができないと思った。

「約束『してた』ってことは、守ってもらえなかったの? まだ、桜は咲いてるよ」
「忘れられちゃったの。約束だけじゃなくて、きっと、わたしのことも。……いつもそうなの。慣れてるから、いいの」
「……じゃあ、何でそんなにさみしそうなの」

 マリーが驚いたように顔を上げた。青色の瞳が涙で潤んで、まるで小さな海みたいだ。

 俺はマリーについて何も知らない。年齢も、住んでいる場所も、過去に何があったのかも、誰を想っているのかも。だけど、だからこそ、これから彼女のことを知りたいと思った。すきな食べ物とか、苦手なこととか。そんな些細なことでいい。一つ一つ知っていくことで、彼女が笑顔になれたらいい。 

「桜なら俺と見ようよ。桜だけじゃない。マリーがしたいこと、全部俺が叶えてあげる。食べたいものとか、行きたいところとか、いくらでもわがまま言っていいんだ。俺にできることなら何でもするし、約束、絶対忘れたりしないから!」

 マリーはあっけにとられたように、ぽかんと俺を見つめていた。そ、そりゃそうか。ちょっとがっつきすぎたかもしれない。気づいたら前のめりになっていた体を、慌てて元の位置に戻す。恥ずかしいこと、言っちゃったかな。出会ったばかりなのに、何言ってんだって思われたかな。

「……じゃあ、連れてって」
「えっ?」

 思いがけない言葉が聞こえて、俺はまた身を乗り出した。マリーは俺をまっすぐに見つめ、脅迫するように繰り返した。

「桜がきれいな場所に、連れていって」

 パンケーキを食べ終わってすぐ、俺たちはカフェを飛び出した。太陽が雲に邪魔されないのは今だけ。少しでもきれいな桜を、マリーに見せてあげたかった。背中にはギター。そして隣には、わがままで気まぐれな女の子。それ以外は何もいらない。 

 人が少ない場所に行きたい、と、マリーは言った。桜がきれいで人が少ないところとは、またまた難しい注文だ。でも、叶えなくてはいけない。彼女のわがままを聞けるのはきっと俺だけ。約束を守れずに、あんな悲しい顔、させてはいけない。

 電車に揺られる間、俺たちはあまり言葉を交わさなかった。マリーは流れていく景色を興味深そうに見つめていたし、俺はそんな彼女を見つめるだけで、なんだかどうしようもなく幸せになった。そうしているうちに、マリーは目蓋が重くなってきたみたいだ。俺の肩に頭を預けて、「ねぇ」とねだるような声で言った。

「子守唄、歌って」

 子供みたいなことを言うなぁ、と思った。俺は「いいよ」とうなずいて、スピッツの「ロビンソン」を小さく口ずさんだ。そうしたらマリーは安心したように目を閉じて、すやすやと寝息を立て始めた。車窓から差し込む西日がマリーの白い肌を照らして、より一層透明感を引き立てていた。

 目的の駅に着いたところでマリーを起こし、電車を降りた。眠たげなマリーの手を引いて歩いていくと、彼女は不機嫌そうに「……疲れた」と息を吐いた。

「もう歩けない……ねぇ、おぶって」
「ギターあるからむり」
「何でもしてくれるって言った……」
「あとでしてあげるから、ちょっと待って!」
「喉乾いた。ジュース飲みたい」

 ……なんだかどんどんわがままが加速している気がする。ほら行くよ、とごまかすように彼女の手を引く。マリーは重たい足を動かして、しぶしぶ俺のあとをついてくる。

 目的地にたどり着いた瞬間、その不機嫌な顔は驚きに変わった。

「……わぁっ」

 目の前に広がる桜並木を見ると、マリーは感動したように息を呑んだ。俺はなんだか誇らしくなって、「すごいだろ」と胸を張った。

 電車で揺られること一時間半、歩くこと十分。ようやくたどり着いた先にあったのは、どこまでも続く桜並木だった。都心部からは離れているため、人はまばらで、青空がいつもよりずっと広く見える。春のにおいを含んだ風が、花びらとマリーの長い髪を舞い上がらせていく。

「きれいだろ。小さい頃よく来たんだ」

 マリーは声を奪われた人魚のように、一言も言葉を発さなかった。ただ、延々と続く桜を、一本一本目で追っていた。

 俺は背負っていたギターケースを下ろし、木のそばに座った。マリーがようやくこっちを見た。俺はいつものように、下手くそなギターをかき鳴らして歌い始めた。

 それは今まで歌ったことのない歌だった。マリーのために、ずっと作り続けていた歌だ。まだ歌詞は途中までしかできていないけれど、今、マリーに聞かせたいと思った。マリーは俺の目の前にしゃがみ込んで、じっと歌に耳を澄ませていた。いつもは不特定多数のために歌っていた。だけど、今は違う。マリーのために。マリーのためだけに、歌いたかった。 

 マリーは泣かなかった。いつも決まって涙を流すはずのその瞳は、俺の姿をじぃっと捉えて離さない。その口元には微かな笑みが浮かんでいた。ああ、これだ。この表情なんだ、俺がずっと見たかったのは。

 舞い落ちる桜吹雪の中、俺は何時間もギターを弾いた。声が枯れてもいい。不器用なこの想いを、どうにかして届けたかった。マリーはあきることなく俺の歌に聞き入り、時折「下手くそ」とか「もう一回」とか言いながらも、ずっとそばにいてくれた。

 そうしているうちに太陽はどんどん傾いて、ついでに雲も増えてきて、突然雨が降り出した。俺たちは逃げるように駅へと走った。ずぶ濡れの体を小さなハンカチで拭いてやると、マリーはいやそうに顔をしかめた。

「気持ち悪い……」
「し、しかたないだろ、これしかないんだから……」

 マリーは顔をしかめながらも、反抗することなく俺に身を任せている。少し、帰るのが惜しくなった。このまま、もう少し一緒にいられないかな。もっとマリーのことを知りたいな。どれだけ願っても時はとまってくれない。そろそろ電車に乗らないと、家に着く頃には夜がぐっと深まってしまう。俺は別にいいけれど、マリーは家族が心配しているかもしれないし――

「……帰りたくない」
「えっ?」

 俺はびっくりして聞き返した。今、マリーは何て言った? 雨の音に紛れてよく聞こえない。

「帰る場所が、ないの」

 マリーは泣き出しそうな声で繰り返した。青色の瞳が、まっすぐに俺を見ている。俺を通して誰かを見ている、いつもの眼差しとは違う。彼女は小さく、だけどはっきりこう言った。

「一日だけ、一緒にいて」

 自宅の最寄駅に着いた頃には、もう太陽は西の空に沈みきっていた。先ほどの雨なんてなかったように、黒い空には船の形をした銀色の月と、針で刺した穴のように小さい星が点々と散らばっている。乗っていた電車の音が遠ざかると、風が木々を揺らす音だけが鮮明に聞こえて、俺とマリーの間に流れる沈黙の色を濃くした。

 いつもならひとりで歩いている道を、マリーと肩を並べてゆっくりと歩く。身長差とか、歩幅の違い、とか。些細なことが、なんだかとても特別に感じる。コンビニで必要最低限のものを買って、鉄筋コンクリートの階段を上ったら、カンカンカン、とふたり分の足音が響いて違和感を覚えた。

「ごめん、全然掃除してなくて……」

 部屋に入ると同時に、用意していた言い訳を口に出した。家賃五万円、七畳の部屋には、畳んでいない洗濯物やギターの楽譜、食べ終わった弁当の箱が散乱していた。いや、だってこんなことになるなんて思ってなかったし。

 マリーは何も言わず、ちょっとだけ顔をしかめながら部屋に上がった。

「先、シャワー浴びる? 風邪ひくし。着替え、俺の服で申し訳ないけど……」
「……うん」

 先日洗濯したばかりのジャージを引き出しから取り出し、マリーに手渡す。マリーは素直にうなずいて、ふらふらと風呂場に入っていった。

 ――やばい。やばいやばい!

 ひとりになった俺は、ストップウォッチのスタートボタンを押したように、全速力で部屋の中を片づけ始めた。ああ、どうしよう。こんなことになるんなら、昨日掃除しておけばよかった。干しっぱなしの洗濯物を競技のようなスピードで引き出しにしまって、食べかけのスナック菓子をゴミ箱に放り込み、書きかけの楽譜を棚に戻す。微かに聞こえるシャワーの音が、やけにうるさく鼓膜を揺らした。気を紛らわせるようにテレビをつけたら、恋愛ドラマのラブシーンが目に飛び込んできて、思わずぎゃっ、と飛び退いてしまった。慌ててくだらないバラエティ番組にチャンネルを変える。

 落ち着け、自分。別に、そういう雰囲気じゃないだろ。特に深い意味はないんだ。俺のことがすき、とか、俺と一緒にいたいとか、そんな理由でついてきたわけじゃない。マリーが部屋にやってきたのは――そう、帰る場所がないからだ。

 俺はふと、冷静になって考えた。マリーについて、考えた。そういえば、今日は一日様子がおかしかった。突然桜が見たいと言ったり、帰りたくないとつぶやいたり。いつものわがままとは、少し質が違うというか。何かあったのかな。辛いこととか、悲しいこととか。考えたところで、今の俺に分かるはずもない。だって俺は、マリーについて、何も知らない。

 しばらくして、シャワーを浴び終えたマリーが風呂場から出てきた。案の定俺のジャージはぶかぶかで、その生活感のある格好がびっくりするほど似合ってなかった。普段のマリーは花柄のワンピースや、白いスカートが多かった。それが彼女の神聖さを一層濃くしていたような気がする。だけど今、無法地帯のような俺の部屋で、俺のジャージを着ていると、途端に彼女の存在が現実味を帯びたというか、ああ、同じ人間だったんだ、と初めて認識できた気がした。俺はなぜだか、真っ白な布を汚してしまったみたいな罪悪感を抱いて、慌てて風呂場へと逃げた。

 シャワーを浴びながら、マリーとの出会いから今日までのことを思い返した。マリーと出会って、まだ二週間くらい。同じ時間を過ごせば過ごすほど、マリーの神々しさは薄れていって、何の変哲もない、どこにでもいる女の子になっていくような気がした。

 あの天使みたいに美しい、神聖なマリーはどこに行った?

 子供みたいに駄々をこねて、桜を見てはしゃいで、子猫のように甘えて――それって、どこにでもいる普通の女の子じゃないか。俺が惹かれていたマリーは、どこに消えてしまったんだ?

 分かってる。わがままを言うのも、甘えるのも、俺に心を開いてくれた証拠。きっと、距離が縮まった証拠。だけどそれがいいことなのか、正直分からない。だって俺がすきなマリーはいつだって、摩天楼のようにゆらゆら揺れる、不安定で幻想的な女の子だったから。俺は一体どうしたいんだ。マリーとの距離を縮めたいって、あんなに願っていたじゃないか。どうして、こんなに動揺するんだ。どうして、どうして……。

 答えが出ないままシャワーを浴び終えた俺は、乱暴に髪を乾かしてから部屋に戻った。マリーは暇をもてあましたように、ベッドに寝転びながらテレビを見ていた。

「マリー」

 名前を呼ぶ。どこにでもいる女の子みたいに、マリーが振り向く。俺を見上げて、なぁに、と首を傾げる。俺はぎこちなく口の端を上げた。

「待たせてごめん。おなか減ってない?」
「減ってる……」
「さっき買った弁当、あっためようか? それか、パスタもあるけど……」
「……パスタがいい」

 心なしか、マリーがちょっと嬉しそうな顔をした。俺は久しぶりに戸棚から鍋を取り出して、慣れない手つきでパスタを茹でた。器に盛って、ソースをかけたらもう完成。普段は言わない「いただきます」も、誰かとご飯を食べるのも、なんだか新鮮だ。マリーは拙い手つきでパスタを一口食べると、「おいしい……」とつぶやいた。

「よかった。パスタ、すきなの?」
「どうして?」
「いや……なんとなく」
「普通」
「……あ、そう」

 やっぱりマリーはよく分からない。

 パスタを食べ終えて歯を磨くと、とうとうすることがなくなって、テレビの音がやけにうるさく耳に響いた。

 どういう会話をしたらいいんだろう。今までどんな話をしていたっけ。元々マリーはあまりしゃべるタイプじゃないし、俺の部屋にマリーがいるって考えると、緊張して何をしゃべったらいいのか分からない。時計を見ると二十二時過ぎ。とりあえず、明日以降のことは明日考えればいい。目をこすっているマリーには、俺のベッドを使ってもらうことにしよう。

「マリー、そろそろ……」
「今日、歌ってた歌」

 俺の話をさえぎるように、突然マリーが口を開いた。

「何て歌?」

 テーブル越しに、俺をじっと見つめてくる。その吸い込まれそうなほど深い青色に、はっと息を呑んだ。

 明日、じゃない。今なんだ。マリーのことを知ることができるのは、きっと今しかないんだ。先延ばしにしたらきっと後悔する。なぜだか分からないけど、そんな予感がしたんだ。

「……マリーのために作った歌なんだ」

 言葉にしたら、情けないことに声が震えた。

「マリーのことがすきだから。……だから、作ったんだ」

 マリーはびっくりしたように目を見開いた。それは今まで見たどの表情よりも人間らしかった。ただの、わがままで気まぐれな女の子がそこにいた。

 そうだ。俺はマリーがすきなんだ。天使みたいな雰囲気をまとった女の子も、今目の前にいる、わがままな普通の女の子も。どちらも「マリー」というひとりの人間なんだ。

 心臓が、口から飛び出てしまいそう……って、乙女かよ、俺は。心の中でつっこみを入れながら、唇をきつく結ぶ。

 望みなんてないのは分かっていた。だってさ、こんなにかわいい女の子が俺の恋人になるなんて、そんな奇跡みたいなことあるわけないだろ? 俺は容姿がいいわけでもないし、性格がいいってわけでも、特別歌がうまいってわけでもない。だから、別に付き合いたいとか、そんな高望みはしてなくて、ただ、この想いを伝えたかっただけなんだ。その先にある拒絶を考えたら、指一本すら動かせないくらいおそろしくなるし、やっぱり、せっかく築いた関係がなくなるのはこわいけど。でも、言ってしまったものはしかたない。この平凡な関係がなくなってしまうとしても、自分の気持ちを死なせるよりはずっとましだ。

 マリーはまるで初めて出会う生き物を見るように、じぃっと俺を見つめていた。照れているわけでも、困っているわけでもない。好奇心と、疑問と、おそれ。それらすべてをごちゃ混ぜにしたような、幼い表情だった。

「……すきって、どういう意味?」

 小さな子供が母親に尋ねるように、マリーは言った。

「それは……マリーが一番って意味だよ」

 俺はありったけの力を込めて答えた。

「マリーが辛い時、さみしい時、悲しい時……いや、それだけじゃなくて、どんな時だってマリーが俺を必要とするなら、俺はマリーを優先する。マリーのどんなわがままだって、俺にできることなら何でもするし、何でも叶えてあげたい。マリーを笑顔にしたい。……俺の『すき』は、そういう『すき』だよ」

 心の中にたまっていた想いを一気に吐き出す。少し大げさかもしれない。だけど、今更どう思われてもいい。マリーのことを知りたいと思うなら、まずは俺のことを、マリーに知ってもらわなきゃ。
 マリーは黙ったままじっと俺を見つめていたけれど――やがて、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「えっ? ご、ごめん。泣くほどいやだった……?」
「……違うの。そうじゃないの。そんなこと、言われたことがなかったから。言われることなんて、ないって、思ってたから」

 涙の量がどんどん増えていくので、慌ててマリーにティッシュの箱を渡した。それでも涙は滝のように溢れてとまらない。俺はタオルを用意して、ついでにあたたかいココアをマリーに渡した。そうすると少しだけ落ち着いたようで、マリーは青い目をうさぎのように腫らしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

「わたしは、ずっと、順番待ちだった」
「……順番待ち?」
「いつも順番が来るのを待ってたの。何番目かは分からなかったけれど、それでも、ちゃんと順番は回ってくるから。だからずっと、待ってたの。でも、本当は一番がよかった。一番に、なりたかったの……」

 マリーが何を言っているのか、何を伝えたいのか。俺にはよく分からなかった。ただ一つ理解できたのは、マリーはずっと耐えてきたということだけ。どれだけ辛くても、苦しくても、さみしくても、悲しくても。きっとわがまま一つ言わずに耐えてきたんだ。それだけが、痛いほどに伝わってきた。俺に対するわがままは、その反動だったのだろうか。そうだったら嬉しい。「帰る場所がない」と言ったマリーの、居場所になれたらそれでいい。

「マリーが一番だよ」 

 俺は勇気を振り絞って、マリーを強く抱き締めた。マリーの体は小さくて、やわらかくて、弱々しくて、あたたかかった。猫のようにふわふわとした亜麻色の髪が、頬に触れてくすぐったかった。

 今、目の前にいるマリーは、特別なんかじゃない。聖なる存在でもない。小さな普通の女の子だった。だからこうして守らなければならない。好奇の目を向けるんじゃない。崇めるわけでも、称えるわけでもなく、普通に愛してやらなければいけない。

「俺は、マリーを悲しませたりしないから。俺もマリーの一番になれるように頑張るから。ちゃんと、マリーのために作った歌も、最後まで完成させるから。マリーを笑顔にできるような歌にするから。……だから待ってて、マリー」

 安心させるようにそう言うと、マリーは小さくうなずいた。迷子の子供のように泣きながら、俺の背中に腕をまわす。わがままな女の子は、その時だけ素直に、「ありがとう」とつぶやいた。

 泣き疲れたのか、マリーはそのまま布団の中に潜り込んだ。こっそり隣で寝ようとしたら、ものすごい勢いで拒否されたので、俺はしかたなく床で眠ることにした。

「子守唄、歌って」

 ごろりと横になったら、ねだるようにそうせがまれた。俺は未完成の歌を静かに歌った。電気の消えた部屋は、まるで深い海の底のようだった。誰にも邪魔されない、ふたりだけの世界に、下手くそな歌だけが鳴り響く。しばらくすると、マリーは安心したようにすやすやと寝息を立て始めた。こっそりと顔をのぞき込んだら、彼女は穏やかに微笑んでいた。

 朝、起きたら何を言おう。何を伝えよう。ひとまず、あたたかいココアを彼女のために用意して、食パンを二枚焼いてあげよう。ふたりでゆっくり過ごしながら、あの歌を完成させるんだ。マリーのために。マリーだけのために。

 ――だけど再び目を開けた時、マリーの姿はどこにもなかった。


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