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年一回

こんにちは。

今日は3.11なのでそれについて。

去年、わたしは引きこもっててたまたま(今日3.11だ…)と思い、朝方昼夜逆転で寝られないのをきっかけにあの日の津波をたくさん動画で見てしまった。

最初は好奇心みたいなものだった、あの頃TVの向こうで見た光景は今ドキュメントとかでやってるのよりえぐかった気がするなー、くらいの。

凄かった怖かった、怖いし悲しいどうにもならない泣きたいのに泣けないみたいな違和感のある恐怖だった。目を背けられなくて2日ほど狂ったようにいろんな記録動画をみた、当時のニュース映像なんかもみた。

遺体〜震災、津波の果てに〜

そして、ルポタージュを一つでいいから読もうと思って、調べて、ノンフィクション作家の石井光太さんの『遺体 震災、津波の果てに』を読んだ。

動画で見ていた悲鳴、流された人、あの場所が場面として描かれていた。そこにいた人たちやその遺体、その遺体を見つけに来る家族のやりとりがしっかり描かれていること、全てがたまらなくつらかった。

作家なのでいわゆる記事を書く方の書いた文章とは違って、体育館の冷たさや、ビニールシートだけががさがさと音を立てる様子まで感じてしまうような精密な描写で何度も目を背けたくなった。

思い出す日

毎日それを忘れないなんて、人間できないし、あんな出来事を意識し続けるなんてとんでもない苦しみだと思う。

けれど、年に一回、思い出さなきゃいけないんじゃないかと思う。

あの日突然命を落とした人もみんなその日の朝は普通に学校に行って会社に行って、家にこもって、買い物をして、普通の日を送ってた。あの地域はどこも昔から津波の多い地域だったわけでみんな津波を意識だってしてた。

それでも、甘かった人がいる、自分の立場、役割の為にどうしょうもなかった人もいる、大きな犠牲に学ばなきゃいけないことはたくさんあるし、改善しなきゃいけないことも山積みのはず。

一人ひとりの意識だけでも

政治とか、社会システムとか、自分じゃどうにもならないこともたくさんあるけど、逃げる時どこに逃げるかとか、自分の大切な人の安否確認のためにはどうするのか話し合っとくとか、できることはある。

ひとりひとり、自分と自分の大切な人のためだけでいいから意識すること、それを意識する機会こそが多くの犠牲の中で私たちが受け取らなきゃいけない大切なことなのかなと思う。

じゃ。

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