オーディションの正体
1996年に誕生したたまごっちは、手のひらに収まるサイズにも関わらず人々の注目の的であり、ちいさな宇宙だった。卵から生まれたこども、のようなものを手の中で育成するそれらはフンをする、放置すると死んでしまうなどのリアルな設定で、わたしたち自身が「育てている」という感覚をつくりだしていた。その後派生したデジタルモンスターもいまだに現役であることからみて、とにかく「育成ゲーム」というものに無意識的に触れる環境下であることはおそらく間違いない。
村上龍による「オーディション」では、映画のオーディションとカモフラージュされた理想の相手探しが行われた。刊行された1997年はちょうど「不況の10年」と呼ばれた時代。不況による社会の歪みの中、変遷する人々の価値観が生々しく描かれたそれは、オーディションという体系が恐怖へと簡単に変わる危うさも描写されているようだった。
現代オーディションと聞いて想像される多くのものは。詳細ルールはさておき大体が視聴者が何かしらの形で参加できるような仕組みになっている。もしくは、自ら手を挙げることができる。現場に、投票に、呼びかけに、さまざまな形態で「参加」しつくりあげる、ようにみえるシステムになっている。
幼少期に、または今もだいすきな育成ゲームが突然目の前の現実世界へと顔を出した、というような状況のため争うことは不可能である。特に、2020年にあった大型オーディションGirls Planet 999(通称ガルプラ)は、まさにコロナ禍の開催だった。閉塞感によって枯渇した他者コミュニケーションがテーマの時流において、オーディションというシステムは人々の娯楽のひとつだった。ガルプラではkep1erが誕生し現在進行形で活躍もしている。
悪魔の手に渡ったのが村上龍の物語であり、扉が開かれたのがガルプラだった、のかもしれない。
世の中なかなか、努力がいつも正しく評価されるわけではない。だからなるだけ、誰かの扉を開けられるひとでいたい、と思う。オーディションとは結局誰かの、成り上がれるチャンスを可視化できる機会であり、目に見えて結果がわかるシステムそのものだ、とたまに思う。
育成したい、という無意識から生まれた正義感(のようなもの)を正しく行使できる可能性のあるものが、オーディションの正体であり、流行の理由なのかもしれない。
応援の気持ちが純粋に報われ、多くの人が誰かの努力を正しく評価できるための多数決になりうる、それがオーディションであって欲しいし、きっとそう。
読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。