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差別をなくそう!

差別をなくそう!と訴えるポスターを眺め、考えていました。

差別をなくそう!は間違いなく必要なメッセージだと思います。でもどうやったら差別をなくすことができるんだろう。

差別とは「違いを認めること」そしてその差を区別して「不当に低く扱うこと」。

違いを認めることだけなら悪いことではありません。みんな違うのだから違うことを理解し認めることは社会生活に必要な作業でしょう。でもその差を理由に、誰かや何かを不当に低く扱うことは悪いことです。

では"不当に"とはどういうことでしょう。誰が何を基準にどうやって、"不当"と"正当"を区別できるのでしょう。


差別をしている人は、十中八九、自分が差別をしているとは思っていません。

フランスでは極右政党が勢力を伸ばしており、支持者へ街頭インタビューを行っている映像がありました。面白いのはみんながみんな「私は人種差別主義者ではないが」「差別には反対だが」という前置きを置いて論じるところです。


「移民を排除すべきだ!でも私は人種差別主義者ではないよ。私の親友は黒人だからね」

果たしてこの人は差別をしているのでしょうか?していないのでしょうか?


このロジックはフランスで実際に何度も耳にしたことがあり、私も言われたことがあります。私のフランス語を真似して揶揄ってくるおじさんに、それは人種差別だと抗議すると言われました。「私の親友は日本人だよ!だから私は人種差別なんてしていない。まったく、冗談も通じないなんて」。

面白くない冗談は冗談ではないことはさておき、発音を笑われて見下されるのは、とても不愉快な経験でした。


ここまであからさまな嫌な体験は少ないのですが、発音が悪いことで信頼されていないなと感じることは時々ありました。私が言っても相手にされないのに、フランス人が同じことを指摘すると話が聞き入れられること。あれ、それ私いま言ったじゃん。大したことではなくても、何度も続くと悔しい気持ちになります。話し方が歪だと、聞く前から話している内容の信ぴょう性も疑われてしまうのです。


だけど私も、同じことをしていました。

先日、パートナーの滞在許可証の更新のために書類を集めていたときのことです。申請書の記載に際し、わからないところがあったので、電話で問い合わせてみました。

応答してくれたときに「おっ」と思いました。アクセントから外国の方だなと分かったからです。いくつか質問があり、訊ねるうちに「大丈夫かな?ちゃんとわかってくれてるのかな?質問の意味、理解してくれてるかな?」と疑っている自分に気がつきました。

私も、相手の発音で外国人だと分かるやいなや、相手の理解力を疑っているのです。私の質問の仕方の方があやふやなことは棚に置いて。


その後、再び質問があって電話をかけたときは日本の方が電話に出ました。そのときは同じように心配になったりはしませんでした。


外国人だと日本人より日本語がスラスラ出てこないでしょう。発音も違います。でもそれは、必ずしもこちらの言っていることを理解していないということではありません。むしろ今回のケースでは、自身も滞在許可証の更新を行っている可能性があるため、当事者である外国人スタッフの方が日本人スタッフより詳しく説明できる可能性もあります。


外国人だからとか、アクセントで、話を聞いてもらえなかった経験があるのに、逆の立場になると私も同じ反応をしてしまうことに反省しました。
でも自分の反応に偏見があることに気がつけたのは、私自身が外国人という経験をしたことがあったからこそです。

自分が当事者になったことのない差別ならもっと簡単に見逃してしまうでしょう。自分は差別なんてしていない!と心に決めながら、差別をしてしまいます。思い込みや偏見で物事に接していると、たくさんのことを見逃してしまいます。



差別をなくそう!というポスターの前で考えます。

差別をなくす方法は分かりませんが、何が差別なのかを理解する努力は怠りたくありません。そして何より、差別っていうのは自分自身がやっていることなのだと真っ直ぐ理解することが、まずは必要なのだと思いました。



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