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心と行動の隔たりを埋めるもの

世の中には人の心に訴えかけるものがたくさんある。
映画、ドラマ、本、漫画、講演。
現代ではYouTubeで「泣ける話」と検索すればゴロゴロ出てくるし、書店の自己啓発本コーナーは、人気コーナーの一つと言える。
泣ける話を見て、大事なことを学ぶ時もあれば、自己啓発本で有力感に満ちることもある。
心はさまざまな形で揺さぶられる。

自己啓発本を例にとろう。
自己啓発本に書いていることの本質は概ね変わらない。

朝早く起きよう、すぐにやろう、いまからやろう、感謝しよう、言葉に気をつけよう…

これらの言葉をさまざまな視点から巧みに読み手に届けてくれるのか自己啓発本だ。
中を読めば、儒教・仏教などの宗教学や哲学といった過去の知識が最新の脳科学や量子力学などと紐付けられながら解説されたりする。
それらの言葉を受け、読み手の心は燃え上がる。

やる気スイッチがオンになる。

「よし今日からやるぞ!」

燃え続ける場合もあるが、多くの場合、どこかで失速し、また、いつも通りの生活に戻る。
そしてまた、やる気スイッチはいつのまにか切れているのだ。

そんな日々を私も何度繰り返したかわからない。

思考と行動には大きな隔たりがある。

大谷翔平の運を拾う


もっと具体的に考えてみる。

大谷翔平がゴミを拾う場面は日本で何度も繰り返し報道される、有名な話だ。
大谷翔平の実績を知らぬ人はいないが、大谷翔平のゴミ拾いについても知らぬ人はいないのではないかというくらいに有名だ。
大谷翔平はゴミを拾うことを「運を拾う」という。
プロ野球選手で一流になるために、「運」も重要な要素であり、そのために、ゴミ拾いをするのだという。
ゴミを拾うとは運を拾うことなのだ。



この話に感動する人は多い。
だからこそ、メディアに取り上げられる。

しかし、そのニュースを見て、実際にゴミを拾った人は果たして何人いるだろうか。
ゴミを拾った人の方が多いだろうか。
そんなことはないはずだ。
恐らく、この話に感動したとしても、ゴミを拾った人の方が少ないのではないだろうか。

心で正しいと思ったところで、行動に起こすのは難しい。

クラスでも同様のことが言える。

道徳の授業や日々の担任からの話で子どもたちには道徳的規範やなすべき行動、あるべき姿というのはインプットされているだろう。
トークの上手い人であれば、言葉巧みに子ども達の気合いを入れることだろう。

それは、指導のあり方として子どもたちの心に火をつける大切な方法の一つだと思う。
私も学級通信や語りを通じて心のあり方、行動のあり方を語ってきた。
それに関してはこちらの記事をご覧いただきたい。
心を燃やす学級通信

しかし、それを行動にうつさせること、継続させることはことさら難しい。

語ったその日は気合いが入れど、次の日、次の週にはモチベーションはかなり低下する。
授業の感想には、おべっかのような「理想的回答」が出てくることもある。
その理想的回答した児童が本当にそれを行動に起こす場合の方が少ない。

基本的にそういうものだし、そのために、さまざまな角度から何度も心が燃える話を語るのが教師の務めであるとも思う。

ただ、心から行動への、この大きな隔たりを埋めることができないが故に、子どもたちの変容は見られないことが多いのではないだろうか。

何度も違う切り口から語るということ以外にもこの隔たりを埋める手立てはないものだろうか。

心と行動の隔たりを埋める手立て


子どもたちが目指すべき目標は、彼らが自らの判断で正しい行動を取れることだ。

例えば、先の大谷翔平の話ならば、誰も見ていないところ(学校の中でも外でも)、ゴミを見つけて拾える人になってほしい、というのがこの話をする人の願いだろう。

そこから、いきなり家でも道端でもゴミを拾えるようになるのは難しい。

この心と行動の隔たりを埋める手立てを教師が打つ必要がある。

子育て四訓というものがある。

乳児はしっかり肌を離すな
幼児は肌を離せ、手を離すな
少年は手を離せ、目を離すな
青年は目を離せ、心を離すな

医学博士の緒方 甫(はじめ)氏が提唱されたものだが、もとはアメリカのインディアンのことわざのようなものだったようだ。
目は離さず、少しずつ、手を放していく。
でも、例え青年になったとしても心は離さない。

この順を追えば、小学生に必要なのは段階的に手を離すことだ。

いきなり、手放しで道徳的行動に行きつかないのであれば、もう少しスモールステップを踏めばいい。
そこで必要なのが、限定的行動だ。

例えば授業内という限定された空間において、ゴミを拾うという行為をさせる。
体感することによって、その行為の良さや実際の体の動き、心の動きを体感させる。
それにより、心から少し行動への具体化が起きる。

とはいえ、この状態はかなり限定されすぎている。
教師が見ている。
友達が見ている。
教師からの指示がある。
その場面での行動は自発的とは言い難い。

そこからさらに限定を広げる。

1日の中でゴミを拾う。

これならば、見られている場面は減り、かなり自発的な行動に近づく。

が、実際にこれをしてみると子ども達は一気に曖昧になる。教師の確認もかなり気合を入れなければ、つい確認し忘れる。
そうしてまた、これらの道徳的行動はおざなりになっていく。

授業内からもっと広いオープンなところへ出た時の行動の変容ほど、難しいものはない。

それは、評価や確認、フィードバックができないからだ。
授業内では即時のフィードバックがかかる。
しかし手を離した瞬間に、目も離れてしまう。


掃除は道徳的行動の塊

そこで、私は、この心と行動の隔たりを埋める手立ての一つとして「掃除」をあげたい。
理由としては以下の3点だ。

①確実に毎日行う時間がある。
②教師の手から離れる。
③道徳的行為を多く含む

まず、掃除は多くの学校で毎日あるものだ。
それは学校の時間として決まっており、確実に過ごさねばならない時間である。
また、教師の手が離れる場面にもなる。
いかに自分の心を律せるかで掃除ができるか否かが変わってくる。
そして、学校の掃除は自分以外の人のためになる行為であり、掃除をするということがすでに道徳的行動である。自分自身に関すること、人との関わりに関すること、集団や社会との関わりに関すること、この3つを同時に満たすことができる行動になり得る。

つまり、毎日確実に教師の手から離れた限定的行動を実施できるのが掃除だ。
まさに、授業と学校外の自由な空間の間に来るステップと言える。

友達と協力しようというテーマも
誠実に行動しようというテーマも
親切心を持とうというテーマも
働くというテーマも
これら全て掃除で網羅できる。
ぜひ、道徳の単元内容を掃除に置き換えて読み直して欲しい。
掃除は絶好の心を鍛える場になりうるのだ。
この掃除を学級経営に活用しない手はない。

掃除ならば、常に振り返ることもできる。
日記に書くのもいいかもしれない。
道徳の授業で振り返ってもいいかもしれない。

思想を実際にこうした日常的な行動と紐づけていく場面が必須だと私は思う。
少しずつ、隔たりを埋めていく必要がある。
そのために、掃除という手立ては絶好の心を育てる機会になりうると私は信じている。

掃除は、倦厭されがちだ。
掃除の時間がコロナの感染症対策や教員の働き方改革などからも全国的に削られていっている実情もある。
実際、世界を見ると掃除指導をしている国は少数派だ。

近年、仕事は細分化され、それぞれがそれぞれのプロフェッショナルに任せる。そのようなスタイルが増えたし、世の風潮としてもその方が良いという考えが浸透してきている。もちろんその考えも否定しない。

ただ、日本には日本の中で美徳とされてきた価値観がある。
「立つ鳥跡を濁さず」
「きた時よりも美しく」
「後腐れない」
これらは日本の美徳をよく表した言葉だ。
日本では昔から、掃除を道徳的行為と位置付けられてきた。
それはつまり、掃除が全く無価値なことではなく、やはり価値があるからこそ、現代まで大切にされてきているということだ。
温故知新。
自己啓発本が過去の偉人の名前をよく出すように、古きから学ぶことは多くある。

終わりに

コロナで掃除の時間を削っても良いのではないかという風潮がある今こそ、掃除の大切さを見直すタイミングだ。
ただきれいにすることを掃除の時間の目的にするのはもったいない。
掃除の時間は心を磨く時間になりうる。
あなたの語りを、授業をより行動にうつせる絶好の機会になりうる。
このチャンスを無益に過ごすのは勿体なさすぎる。

今こそ掃除の時間を見直そう。
道徳の授業の後に、掃除でその行動を実践させよう。
あくまで、思想は行動に起こしてこそ価値がある。

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