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「花束みたいな恋をした」をみた帰り道のこと。

映画「花束みたいな恋をした」を観た。その帰り道、映画館から近かった、高校時代の通学路になんとなく足を運んだ。当時の恋人と、あの裏道で誰にも見つからないようにこっそり手を繋いで帰ったなあ、とか、大学生や大人になることに疑いのない憧れを寄せていたなあ、とか思い出しながら、麦と絹に想いを馳せていた。私は、劇中の二人に、いつかの私を見ていた。

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私は、たまたま一緒に終電に乗り遅れた知らない男性と一晩飲み明かした経験もないし、クロノスタシスも知らなかったし、ジャンケンのルールに疑問を覚えたこともなかった。その代わりに、初めて買ったCDが一緒で意気投合したこと、住んでいる場所が近くて電車の路線が一緒だったこと、進路に一緒に悩んで人生について語りつくしたこと…そんな一つひとつを思い返していた。そしてその一つひとつは、私とその人との日々をかけがえのない日々にしていたものだった。唯一無二にしていたものだった。

劇中の二人はずっと一緒に居続けることはできなかった。学生から社会に出る過程で、二人それぞれが大切にしたいものが変わっていったのかもしれないし、趣味の裏にある二人の思想は元々全然違って、「生活をする」ということを念頭に置いたとき、その違いが顕在化していっただけなのかもしれない。この映画を観て、ラ・ラ・ランドや、ジョゼと虎と魚たちといった映画を思い出した。これらの映画も濃密な日々を共に過ごした男女が、最終的には別々の道を歩む話だ。それらの映画にはたくさんのファンがいて、この「花束みたいな恋をした」も現在多くの人の心を動かして魅了している。

そこで私は思った。ああ、自分がかけがえのないと思っていた日々は、ちょっとばかり姿を変えてきっとよくある話なんだなあと。それぞれがそれぞれのやり方で、麦と絹にいつかの自分を重ね合わせている。でも私はそれを悲しく思うでもなく、むしろ、その”ありふれた”特別を、大切にゆっくりと温めていけた日々をとても愛おしく思った。

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そういえば、あれは今もあるのだろうか。高校三年間、どうしても友達に言い出せず、でも好奇心旺盛な私は毎日横目に見て、できる限りの平静を保って横を通りすぎていたもの。私は記憶を思い返してその場所に向かった。
”ファミリープラン”-SAGAMI-
あった。さびれたコンドーム自販機。一箱500円。三種展開。"記念"に買っておこう。私は硬貨を入れ、一番シンプルな包装のものを選んだ。取り出し口から出てきたそれを、私は今恥じらいもなく手に取っている。

今の私は、ありふれた特別を特別と勘違いすることもできなくなった。自分が自分の人生をどう生きるのかに精一杯で、誰かを一晩中想うのに時間を使うこと、恋人とただ無為に過ぎる時間を過ごすこともなくなってしまった。正直なところ、私はまだ、あの濃密さに勝る人間関係の築き方を見つけられていない。でも、映画のラストの麦と絹がどこまでもさわやかだったことが私を前向きにしてくれた。そして、高校生当時は想像もしていなかった思いを抱えてこの通学路を今歩いていること、そもそも映画を観てこんな気持ちになれることがなんだかとてつもなく面白くて豊かで、人生をしている感じがした。


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