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『あのこは貴族』 東京に暮らす彼女たち、私たち

これは私の映画だ。そう思える作品に久しぶりに出会えて、帰り道は風景が少し違って見えた。そんな作品でした。

1. ものがたり

東京のお嬢様としてなに不自由ない暮らしを送ってきた華子と、
猛勉強の末、地方から上京してきた美紀。本当なら関わるはずのなかった2人の青春最後の日々の物語。

この物語のなかで、
敢えて女の子達と呼んでしまうけれど、ふたりの主人公である彼女達は、
年令としてはもちろんもう十分大人だけど、自分の手元に、足元に、確たるものもなく、不確定で不安定な、彼女たちの現在を生きている。

なに不自由ない華子。望まぬ苦労と選択をするしかなかった美紀。
結果的に自ら何かを選び取ることなく生きてきた、不確かな毎日を過ごすふたりが
婚約者幸一郎をきっかけに偶然出会うことで、華子の人生は大きく動き出し、美紀も人生の転機を迎えます。

望んだ仕事でもなければ、恋愛をして好きになった人と結婚をするという訳でもなくお仕着せのお見合いを受けてみたり。なんとなく結果的に過ごしてきた女の子の日々が終わり、自分の未来を自分の足で歩き出すまでの数年間を丁寧に描いた物語です。


2.作品の魅力

華子と美紀。ふたりとも自身の中に空虚さを抱えているからこそ、お互いの中に自分が持たない美しさを見出す。その過程が静かに丁寧に、大げさでなく描かれていて、とても優しい。

美紀との出会いを経て、華子が自分の生きてきた道とこれからを思い、なんとなく生きてきた昨日とさよならし、自分の足で選んだ道を歩いていく姿は、
とても励まされる思いがしたし、彼女達が笑っているだけで、涙が溢れてきてしまった。

女の子としての日々を軽やかに卒業し、晴れ晴れと次の道を歩いていく彼女達に、なんだか私の、ままならなかった20代青春時代最期の日々も救ってもらったような気持ちになったのだ。

さっぱりとした、でも愛情のある言葉で華子を見守る逸子、
美紀に新しい場所、私の場所だと思える道を示してくれた平田、
すてきな女友達が、本当に魅力的だった。


3. 2021年のシスターフッド

シスターフッド この言葉が使われるようになったのは女性の権利運動がさかんに叫ばれるようになった、70年代だけど、いま、その頃とは別のかたちで使われるようになってきている。

私たちは、第三者が定義したカテゴリーの中で、競わされ、闘わされ、分断されていた部分が、なかったなんて絶対ない。
未婚への揶揄。年をとることへのネガティブな解釈、若さへ執着の呪い。
分断して誰かを下に見れば、それが自分にしっぺ返しとして返ってくるのに、時として自分の足で立つ足下の寄る辺なさに他者を傷つけてしまう。
いちども傷つけたことがない、なんて言えない。

逸子や、美紀、そしておずおずと華子は、その垣根を、分断の谷間を、軽やかに越えてみせてくれた。

大丈夫、自分の足で、自分の信じたように歩いたらいいって。
すごく、すごく胸が救われた気がした。
ありがとうって言いたかった。何にかはわからないけれど。

そんな映画でした

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