創作と自我、私は二者を重ねたくないって話

ここか、老舗の街中華。
赤いのれんをくぐり、古びた券売機の一番左上、おそらく最も押されたであろう「中華そば 800円」を押す。
小ぢんまりとした券が銀色のやたら広い発券口にストンと落とされ、それを手に取り大将に手渡す。「中華そばお願いします」
小気味良い湯切りやガスの音と、ラーメンをすする周りの客の音。充満するごま油の香り。
少し油でベタついた赤いカウンターの机上も、もはやスパイスである。
「中華そばお待ち」
低いながらも芯のある声で、カウンターの上にスッと置かれた中華そばは、黄金色の輝きと豊かな湯気を届けてくれた。

レンゲで秋の空のような色のスープを掬い、口へ運ぶ。

……これは。間違いない。
ラーメン屋の大将の顔が頭に浮かぶ。
さっきラーメン出してくれた人。

向こう側が透けて見えるのかとすら思う、汁の絡んだ麺を勢いよくすする。

……これは。間違いない。
ラーメン屋の大将の顔が頭に浮かぶ。
さっき券売機の券受け取ってくれた人。


あらゆる具材を食べるたび、目の前には大将の顔が浮かぶ。

作ってくれた人の顔が見える、とはこういうことか。

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2023/12/04、XことTwitterのトレンドで「イラストと自我」という単語を見た。
イラストを投稿する者はイラストをツイートしていれば良くて、その人の人格には興味ない、という考えが波紋を呼んだからである。

私からすれば、イラストと自我が重なるのは上記のラーメンである。
可愛い美少女がこちらに手を差し伸べるイラストも、背景には毎晩酒の画像をアップしている、すね毛のおっさんが脳裏に浮かんでしまうのはどうも気持ちいいものではないだろう。

かくいう理由で、私はイラスト、ひいては創作物と創作者、すなわち自我は切り離して楽しみたいのである。

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