わたしは“しごと”がしたい。
なんとなく描く、一日の予定は、かっちり計画を立てた日に限って、それは完璧にならないのだ。
今日もそんな一日だ。
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「はたらく」「生きる」「暮らす」をいっぺんに経験し始めて、1年はたった。
でも、うまくなった気はなかなかしない。
特に「はたらく」が難しい。
私にとって、はたらくは「頑張る」こと。
頑張らないと、やってけないこと。
それは、自分が感じている以上に、私自身に重い荷物をしょわせているような感覚。
いつも、どこかあたまのなかがすっきりしない。どこかこころがどんよりするような、そんな感覚が当たり前でこびりついている。
自分の好きややりたいことが分からないのは、こんなにも生きづらくて不利なことなんだと、こころが折れて小さく縮こまってしまうほどに、痛いほどに感じてきた。
いまも、わかる。感じる。
からだとこころが大きくなってからの種まきは、運試しだ。
吉と出るか、大きく外れるか。
この1年間で種まきがある種成功したのは、きっと奇跡だ。
運がとってもいい。守られているなあと感謝が止まらなくなる。
土砂降りの雨だって、台風だって容赦なかった。
でも、それは最悪なんかじゃなかった、最幸な恵の天からの贈り物だった。
もはや、ラッキー以外のなんでもない。
何がしたいのか、わたしは何者なのか「分からない」
「分からない」はずなのに、ぼんやりと見ている世界は、ひどくも美しかった。
どうすればいいのか、どうしたいのか、頼りない感覚を頼りに、もやの先にある輝きを見つめていた。
そのわたしに、私は絶望することは、しなかった。
孤独であると感じる気持ちと裏腹に、自分だけしか分からない感じられないこの現実に、喜びさえ覚えた。
ーそれはよく、「しあわせ」といった。
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「仕事」
それは仕える事と書く。
いつまでも「しごと」ってなんだろうって、疑問だった。「これが、私のしごとだ」というには、あまりにも程遠い気がしたからだ。
わたしが思う「しごと」と実際の「しごと」。それに、よく見る「しごと」。そのぜんぶは、同じしごとなのにあまりにも表情が違っていることに気がつく。
あのひとのしごとを私がやってみても、上手にできなかったり、空回りしたりする。私が、しごとを「しごと」だと胸張って言える日は、一体いつ来るんだろう。少し、気が遠くなる。
しごとの先にあるものばかりに気を取られていると、しごとの喜びは減ってしまう。でも、何でしごとをするのかも、何をしごとにするのかも分からない私がいる。ずっと、こっちとあっちを行ったり来たりして、なんだか居心地がよくない。
やりたいことなんて山ほどある。なのに、しごとに結びつかなくて、ただただ、しごとの時間は過ぎてゆく。
そう、「しごと」の時間はあまりにも長い。よく、しごとをする。しごとして、お金持ちになって、手に入れたかったあれこれを手にする。それはしあわせなのか。
はたまた、しごとが出来なくて、やりたいことがしごとじゃなかったら、それはふしあわせなのか。
分からない。でもきっと、それは本人が決めることで、だれかから「あなたかわいそうね」なんてことばを掛けられる筋はないのだろう。
でも、わたしはやっぱり、「しごと」をしていたい。しごとに喜びとしあわせをたっぷり感じて生きていたい。
じゃあその、「しごと」なるものは何か。その何かがずっとずっと分からなくて、分かるときなんてずっと来ないんだと思っていた。
けどね、さいきんになって、自分のやっていることが好きだし、胸を張ってしごとの話をすることができるようになった。
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私のやっていることは少し薄暗くて、あまり日の目を浴びるような派手なものではない。でも、私が関わる世界の片隅で、ちいさな幸せを感じられる瞬間がある。私の「好き」を広げられた場所であり、種まきを始めた場所でもある。
「しごと」はきっと、どんなものでも大変。
大変な瞬間がない「しごと」なんて、きっと存在しない。
でも、大変でも、それを超えられる「何か」がひとつでもあれば、それはいつしか立派な「しごと」になるのだと思う。
それが、「楽しい」でもいいし、「うれしい」でもいい。
体の中を血がいっぱいめぐるような感覚を、与えてくれるもの、それがきっとしごとであり、生きる糧になる。
「大変でも、続けてみたら?」
その一言は間違っていないと思う。でも、大変なの前に、自分が感じている感覚はどんなものなのか、自分自身の体や心の声に耳を傾けてほしい、と私は願う。
「つらい」「しんどい」。
「くるしい」「やめたい」。
大変な場面を乗り越えられる理由がなくて、こんな感情で埋め尽くされているのなら、それがしごとであれ何であれ、その場を離れる立派な動機付けだと思う。
大変を乗り越えられる「何か」を持てない何かは、早く手放して、生きている喜びを感じる旅へ出よう。
大変を超えられる「何か」を抱きしめ、進むことができたとき、それがどんなかたちであれ、きっと、いや必ず生きる糧になる。
強さとなり、愛となり、記憶となる。
そんな感覚を、最近覚えたものです。
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そうだ。そう。
わたしは“志事”がしたい。
しごとの初めの大半は、覚えることと慣れることでいっぱいだ。
慣れてしまえば、こっちのもの。
薄暗くても、肌寒くても、誰かの笑顔を見れる瞬間が、私はとてもしあわせだ。理想はたくさんあるけれど、理想ぴったりの場所を見つけるエネルギーは、この広い地球上じゃあまりにもちっぽけだ。
どんな場所でも、輝きを放っている人は、見ていてこっちまで笑顔になる。
私は、そんなひとになりたかった。
すこし、いやかなり、不器用で、母親に似て我慢強い。
いつからかしみついてしまったクセのせいで、なんでも自分でやりたがる。
あるとき言われた。
「エスキモーみたい。一番あなたから生命力を感じるよ。」
ああ、ふんばってよかった。毎日笑顔でいてよかった。
そう思った。
さいしょから完璧にこなすなんて、さいしょからあの人みたいなんて、無理だ。少しずつ少しずつ、自分のよさを見つけて、少しずつよさを出していく。
それでいい。それが私のスタイル。
種をまいたら、つぎは芽が出て、一番育ちの良さそうな苗を残す。
6月になった。昼間はじんわり汗がにじむ季節になった。
きっと今は、自分の感覚を頼りに苗を選んでいるところ。
他の苗とさよならするのは、さみしいし、不安もある。
「こっちのほうがよかったらどうしよう」
そんな風に感じてしまうのも無理はない。
でも、私は不安より愛を選びたい。
不安でしょうがなくて、押しつぶされそうになりながら選ぶより、
生きる喜びを感じて、愛と自分へのやさしさに包まれながら選びたい。
志なんてつよいものを持つには、少し早い気もするし、もう少しゆっくり自分の身体の中に流れる川の流れや、こころの音を感じ取っていたいから、
これから選ぶ道も、これまで選んできた道も、
ぎゅっと抱きしめる勇気が出たときに、私はそうするよ。
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p.s.
だいすきな歌詞を今ここに。
進む方向は、前でも後ろでもいい。
私は、あなたは、今の私たちだから美しいのです。
今日はいい天気で風が気持ちいい。
いつでも、体にはフレッシュな風を吹かせていたいな。
今日も生きてる。生きている。
美しいあなたへ。