へいへい

へいへいは、バカだ。
偏差値の低い私達の高校の中でも、群を抜いて頭が悪い。
よく忘れ物をするし、授業中は寝てるし、男子達が馬鹿らしい遊びをしている時、中心にいるのは大抵へいへいだ。

そんなへいへいに興味を持ったのはいつ頃だったのか、もう覚えていない。
彼は、サッカー部に所属していた。
部活の中でどれくらい上手いのかはわからない。
けれど彼は運動神経が良いから、きっと足でボールを思いのままにコントロールすることなんて、朝飯前だろう。

部活終わりのへいへいは、熱い。隣にいると、その熱気が空気を通して私の腕に伝わってくる。
大量に振りかけた制汗剤の匂いは、へいへいには似合わなかった。
彼の、汗の匂いが、好きだった。

彼と出会う前、高校一年生だった頃、私はどうしようもない恋愛をしていた。
相手は2つ上の先輩で、不良をこじらせてよく自宅謹慎している人だった。
その先輩は、卒業したらそのまた先輩の働いている建築現場に弟子入りすることが決まっていた。
校則違反にも関わらず、近所の駐輪場までバイクで通っていた先輩を、かっこいいなと思ったのは本当だった。
当時の私はとにかく家が嫌いで、出たくて仕方がなかった。
先輩の運転するバイクの背中にしがみついて真夜中に遠くまで走ることは、私の憂鬱な生活に開いた風穴だった。
夏休みのある日、先輩が私のうちへ行きたいと言い出した。
きっと、私の肉体に興味があったのだろう。
私はそれまで先輩に黙っていたことを、伝えなくてはいけないと観念した。
ひぐらしの鳴く、くたびれた夕方だった。

私の両親は、障害を持っている。
両親共に耳が聞こえないから、私は彼らと手話を使って会話をしている。
そのことを先輩に伝えた。
先輩は、まじかよ、と笑った。
まじです。先輩を睨みつけた。
それきり、2人で会うことはなかった。

先輩と会うことのない毎日が日常として定着してから、私は彼のことを愛していなかったことに思い至った。
自分が、彼の広い背中や厭世観に憧れていたに過ぎなかったのだと気づいた時は、少し寂しかったが、やがて慣れた。
へいへいが私に好意を持っているという噂はよく耳にしていたが、それについてリアクションするのも億劫になっていた。
へいへいはバカなので、そんな私のつれない態度を気にすることもなく、毎日私につきまとった。
次第に私も彼を受け入れるようになった。朝、駅から校門へ向かう道のりを一緒に歩き、帰りは彼の部活が終わるのを待って、一緒に帰った。

その日は期末試験が終わって、部活動が再開された日だった。久しぶりに昇降口で待ち合わせをして、二人で駅まで歩いた。外はすっかり暗くなっていて、群青色の空には月と金星が見えた。
私の息とへいへいの息が、白く浮かび上がって溶けていく。
通学路に面した住宅地から、カレーの匂いが漂ってきた。
へいへいに「お前の家族、どんな?」と訊かれた時、私は素直に家族の話をした。母のこと、父のこと。彼らの耳が聴こえないことも伝えたかもしれないが、はっきりとは覚えていない。なぜなら、それは彼らの特徴ではあるが、彼らの人格を形容する足枷にはならないと、その時確信出来たからだ。
へいへいは、私が予想していたどんなリアクションもしなかった。
説明した後に黙り込んだ私に「お前、家族が好きなんだな」と笑った。
そして、自分の家の話もしだした。弟の面倒を見ていること。父親とした喧嘩の内容。母親のお弁当がいつも彩りに乏しいこと。
駅のホームで、へいへいと向き合った。
「いつか、おれんちに遊びに来いよ」
彼の顔を仰ぎ見ると、笑っている。
「うん。私の家にも遊びに来て」
ホームに電車が到着する。それぞれの家に続く電車に乗り込んで、ドアの窓から手を振りあった。
線路の続く先に私の家族が待っている。その線路は、見えない輝きを帯びて私を愛へ導く。そしてその帯のもう一方は、へいへいの暮らす家に繋がっている。きっと、私が帯を震わせたらその先で鈴がちりんとなるのだろう。そして、へいへいはそれに気がついて、そっと鳴らし返してくれることだろう。その音を聴き取るには、聴覚も学力も関係なく、きっと心の力の問題なのだ。
電車から見える景色は、いつもよりも煌めいてみえた。

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